忘却の姫君


序


「ユリアーデ、こちらへ おいで」
「ここに居ますわ お父様」
紗の天蓋の中。蜜柑色の髪を綺麗に結い上げた少女は寝台からかろうじて伸べられた手を両手で包んだ。
「ユリアーデ…私のかわいいユリアーデ…」
枯枝のような手と同様に、その声もまた皺枯れている。
「よくお聞き…この国には恐ろしい兵器が ある」
「お父様?」
骨と皮になった老人は唾を一度飲み込んだ。
「それはこの国を世界中を壊しかねない仕組み…王家だけに伝えられてきた秘密」
声や手の震えは、容態からくるものではなかった
「けして他の者の手に…渡ってはならない……ユリアーデ…これが…」
彼は枕の下から、小さな小箱を取り出した…がそれは痩せた手を離れ、床へ落ちた。
その櫃を少女は拾い上げ…
「お父様?!」

王は死に そして

国は焼かれた。



一・放浪の法師 西の大陸の奥地に「森林の国」はある。 その名の通り森の中に息づく城塞都市は2、3年前に炎に包まれた。 それを皮切りに王政は倒され、共和制に成り代わった国。そう、カルマは聞いていた。 実際、高い壁の向こうに見える王城の一部らしき尖塔のシルエットは半ば崩れている。 「怖い怖い」 半笑いで一人呟きながら、カルマは門を目指した。 ――時は日が暮れて半刻あたりだろうか。 もしかしたらすでに門は閉ざされているかもしれないが、それならば野営して朝を待つだけだ。急ぐ旅ではない。 はるか東方の地の衣服と『刀』と呼ばれる片刃の剣。異邦人然としたいでたちの彼は極東の宗派の僧侶で、彼の左 の手のひらにはその証である藍色の巴の紋が彫られている。 しかし彼が歩くのは修行のためではない。この国にやってきた理由は、人探し。 それが国から国へ放浪を続ける彼の旅の目的で、既に故郷の寺院に居場所をなくしている彼の唯一の指標だった。 3日ほど滞在して…日銭と出来れば『彼女』に関する情報も得られたら良い、とわずかな希望と算段をめぐらせつ つ黒く焦げた煉瓦づくりの壁に沿って歩いていると、不意に火薬臭とともに爆発音がした。それは、壁の向こうで。 騒がしい人々の声と大筒の砲撃音。それらは徐々に大きくなってこちらへ迫ってくるように感じ、カルマは無意識 のうちに腰の刀へ手をやっていた。 そして突如、彼の真上に人影が躍り出た。 おそらく壁を乗り越えてきたのだろう。続いて数人が壁を乗り越えては地面にぐしゃりと落ちた。 それを追いかけるかのように罵声と石と矢が、壁を越えてくる。 荒々しいつぶてを背後に最初に降ってきた人物だけが立ち上がり、手にさげた短剣でカルマに斬りかかってきた。 何が起こったかわからないままカルマは反射的に刀を抜き斬撃を防ぐ。と、間近で見た賊の顔が年若い娘のもので、 彼は少しだけ動揺した。 だが――たとえ女子供であろうとも自分に向かってくるものには容赦しない。 それが、カルマという破戒僧であった。 ――どのような事情があろうと知ったことではない。 実際のところ、彼は飛びきり剣に長けているわけではなかった。だからこそ、たとえ相手が娘でも、気を抜くこと は出来ない。少しでも気を抜けばやられてしまうであろう自分の程度をカルマはよく知っていた。 カルマは一度退り、刀を構えなおす。少女は真っ直ぐに彼に向かってくる。 カルマは少女を逆袈裟に斬るつもりだった、が、次の瞬間に起きたのは見知らぬ男が自分の前に立ちふさがり少女 の斬撃を受ける光景。 おそらく壁の向こうから落ちてきた者の一人だろう。男は胸から下腹を大きく斬られ、血しぶきとともに地面に落 ち、そして自分を見下ろすカルマに満足げな笑みを見せた。 「私…はあなたの命をお助け…しました……その代わりに、どうか…姫を、…守ってください……」 少女は錯乱しているのか、なおもカルマに斬りかかってくる。 「姫とはコレのことかっ?」 カルマはかろうじて斬撃を避けると少女の懐に入り、鳩尾を殴りつけて気絶させた。 男はカルマの足元で薄く頷く。 「…東に半里…私どもの隠れ処があります…姫の…手当てを」 「お前たち全員を運べと?」 「私どもは…もう駄目です…死体は…街の者がいずれ焼いてくれる……それよ り…姫を……」 これだから騎士道は理解しがたい。カルマはため息をつくと、姫、と呼ばれた少女を肩に担いだ。 「あり…がとう……どうか…姫を…でなければ……世界が……」 言い終わる前に、忠実な部下は事切れた。他の者も、同様に既に死んでいた。 カルマは少し頭を掻き、刀を鞘に収めると自分の荷を拾う。 あの時、庇われていなければ死んでいたのはカルマのほうだった。面倒だ、という心をその事実が押しとどめる。 左肩に、娘のかすかな心臓の音。 彼は真っ黒な空に独り白く浮かぶ月を仰ぎ、そして東へ歩き始めた。 忠実な男の末期の言葉どおりに東へゆくと、崖の麓に洞窟に石材を運んで造ったような遺跡が木々の間から姿を現 した。 建材は風雨にさらされて色褪せており、この場所が打ち捨てられてから数百年は経っていると容易に想像がつくが、 その内部を覗いてみると樽や木箱、机や椅子、ランプにハンモックなど明らかに人が住んでいる形跡がある。おそ らくここが彼の言っていた隠れ処、というやつなのだろう。 カルマは石の梁をくぐるとその薄暗い空間に足を踏み入れた。 月は天の真上に来ており、狭い入口から青白い光が差し込んでいる。 羊毛のラグの上に肩の少女を下ろすと、カルマはランプに火を点けて椅子に腰掛け、荷物と足を机の上に投げ出し 息を吐いた。 一体こいつ等…いや、今はもう一人だが…は何者なのか。 ――何者にしても、面倒くさいことになった。だが屋根のあるところで久々に眠れるのだから、まぁ良しとするか。 この娘を住処に戻してやったのだから、約束には十分報いただろう。 今夜はここに寝場所を借り、明日の朝、娘が起きる前に出ればいいだろう、となど考えを巡らせていると、娘の苦 しげな声が聞こえ、カルマは一気に現実に引き戻された。 椅子から腰を上げ、寄って見てみると、右の脇腹が血で滲んでいる。 「放って置いたら、夢見が悪い、なぁ…」 カルマは自分の荷の中から血止め薬を引っ張り出し、少女の手当てを始めた。 少女が目を覚ましたのは、夜明け前の涼しい霧がかかる頃だった。 遺跡の外で先刻狩ったばかりの兎をさばいていたカルマは、ふらつきつつ中から出てきた少女の、その鮮やかな 蜜柑色の長い髪に一瞬目を奪われた。 「起きたか」 その言葉の裏にはまだ寝ていればよかったのに。姿をくらますタイミングを失ってしまった、という思いが隠され ている。 「……あなたは…?」 霧の中、姿と同様にぼやけた声で少女は問いかけた。カルマは少し肩をすくめ火打石を打つが、空気の湿り気のせ いで火花がなかなか起こらない。 「…みんなは、どこ…私……なぜ ここに戻ってきているの?!」 ようやく、火がおこり、枯れ草がボウ、と燃え出した。 と同時に意識が覚醒した少女に着物の袂を後ろから何度も引かれた。 「待て。落ち着け。手を放せ」 背を向けていたカルマは仕方なく彼女に向き直り、先刻遺跡の中の隠れ家で見つけ出した薪を2、3本火に投げ入 れると彼女を自分の隣に座らせた。 全て、を聞かされた少女は蒼白になった顔でカルマの焼いた肉を少しかじった。 ジュワ、と肉汁が口内に広がり、その長いまつ毛に涙が溜まる、が、彼女はいそいで目をこすり、泣くのをこらえた。 「泣いても笑わんが」 少女はカルマの言葉に顔を手で覆ったまま首を振る。 「…泣かないって、決めたの」 「殊勝なことで。」 彼女が生き残った最後の家来を錯乱していたとはいえ自ら死なせた、ということは言わないでおいた。 言ったらこのくらいでは済まないだろうとカルマは彼女を見つつぼんやりと考えていた。 「『お姫様』、なのになぁ」 カルマは自分の身代わりに死んだ男の言葉を思い出し、皮肉を混ぜて言う。 泣きたいときに泣かずに意地を張る人間を、彼は好いていなかった。 彼女は顔を上げ、カルマの顔をじっと見た。カルマはその意外にも強い視線に一瞬たじろいだ。 「…元、お姫様、よ」 なに、という声はカルマの喉から出ることすら出来なかった。少女はもう一口肉を食み、長い髪の先を少しつまんで もてあそぶ。 「2年と7月前…だったわ。お父様が目の前で亡くなったの」 ――あの国でクーデターが起きたのは知っていた。王政が倒され、王の血は絶えた、と聞いていたが。 「その後は…あまり覚えてなくて、気付いたら、お城で良くしてくれていた家臣たちと、この遺跡に隠れていたわ。」 ――まさか本当に目の前にいるこの娘が 「決めたの。皆でお城を取り戻すまで、泣かないって」 ――『森林の国』オーリープ王朝の皇女だというのか?! カルマは顔には出さなかったがかなり動揺していた。まさか行きずりで助ける羽目になった小娘が、元皇女だとは。 なんとも…面倒なことになった。 盛大に溜息をつきたい気分だったが、こうしてはいられない。 姫の家来は全員死に、彼女は独り。そこに偶然とはいえ助けてしまった自分。 この様子では彼女の国獲りに巻き込まれかねない。早々に立ち去らねば。 思うが早いか、カルマは荷を肩にかけ腰を上げた。 「食い終わったら、火の始末だけ頼む。…俺はもう、行くから」 「開門は四の刻からよ」 カルマは少女を見下ろした。こっちの考えを見透かしているのか?いや、この辺りで用のある場所と言えば、あの国 だけで、後は森ばかりだ。 「門の前で待つさ」 「そう」 割とあっさりと、彼女はカルマを送り出すように思えた、が、 「…放せ」 行こうとする彼の着物の裾を、少女は不意に握り締め、放そうとしない。 見下ろすと少女は驚いたような顔をしていた、がそれは一瞬のことで、彼女は強く真っ直ぐな眼差しでカルマを見上げた。 「一緒に、連れていって下さい」 やはり、とカルマは内心肩を落とした。 「俺にも事情がある」 「街に入るまででいいんです」 「ひとりで、やれると?」 もうカルマは、問答するのも嫌になっていた。 最終手段を使うしかないか、だがアレをやるとすごく腹が空くんだよな、と考えつつ、その手段のために左の手の ひら、巴紋に意識を集中させた。 と、少女は裾をようやく放しカルマと向き直るように立ち上がった。 そして、懐から短剣を抜き、その腰まで届く長い髪を、一気に切り落とした。 音もなく切り取られる細い髪。 蜜柑色の糸がぱらりぱらりと朝露の下草に落ち、肩口までの長さになった髪が涼風に揺れる。 その美しさにカルマの胸はわずかに震えた。久しく忘れていた感覚。 これが、彼女の覚悟だというのなら――― 「服を脱げ」 不意の言葉に彼女はしばし呆然とし、そして狼狽えた。指に絡んだ明るい色の髪がするりと落ちる。 「…なっ…!!」 白い頬が紅く染まる。 カルマは何も言わず、ただ少女を見ていた。 やがて彼女はゆっくりとボタンを外し始めた。唇を、噛みしめながら。 そして、何も隠すものが無くなった彼女の躰におりしも昇ったばかりの朝日が差し込んだ。 傷一つ無い白く滑らかな肌が陽の光で黄金に照らされる。 カルマはわずかに口元を緩めると、布の包みを一つ、彼女に放った。 「え…?」 拍子抜けたように目を見開き、少女はカルマを見上げた。 包みの中に入っていたのは、新品の綿のサラシと藍染の着物。 「着ておけ。そのくたびれた服よりマシだろう」 カルマが顎で指す、脱ぎ捨てられた彼女の衣服は掻き傷や擦り切れであちこち裂け、血にまみれていた。 少女は渡された衣服と彼の顔を見比べ、そして着物に袖を通す…が、見慣れぬ異国の服の着方がわかるはずもない。 「あぁ、大人しくしていな。…作ったばかりで、俺もまだ着てないってのに…」 独り言のように呟きつつ、カルマはサラシを取り上げ、彼女の胸から腹部にかけてきつく巻き始める。 「胸、潰すぞ。痛いが我慢しろ」 「なんで…?」 されるがままに、少女は呟く。 「痩せているからな。胸を平らにすれば小僧にみえるだろう」 言って、更に引く手に力を込める。 「変装すればお前も壁を越えなくとも入国できる。さしずめ…旅の異邦人兄弟あたりか」 「えっ…?」 彼女が勢いよく振り向いたせいで綺麗に巻いていたサラシがバラリ、とゆがんだ。 「一緒に、行ってくれる…の…?」 「街に入るまでだ。その後は知らんがな」 「ありがとう…っ」 両の手でカルマの手をとり彼を見上げた少女の表情は、出会ってから初めての本当に嬉しそうな笑顔だった。 その愛らしい顔を見た途端、感情とは逆にカルマは軽い頭痛を感じた。 「…巻き直すぞ。むこうを向いていろ」 痛みは一瞬のことで、カルマはすぐに忘れた。 少女は素直に後ろを向くと、弾んだ声で喋りかけてきた。 「私、ユリアーデ・クレィマティス・オーリープといいます。あなたの、お名前は?」 先の様子とは打って変わった快活な声。カルマも少し口の端を上げる。そのわかりやすい素直そうな気性が気に 入って、少しだけこの少女に付き合うことにしたのはのはただの気まぐれだった。 「カルマだ」
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