『四月の魚』


麓の町よりも一足遅れでようやく春が訪れた、東京近郊のとある山。原生林のただ中に唐突に、しかし調和を守りながらその旧家は堂々と建っていた。

「つまんなーい つまんなーい つまんなーいの〜っ」

節をつけて言いながら木々の枝を伝い猿のように飛び跳ねる姿がひとつ、その広大な瓦葺きの屋根の上に降り立った。


 ◇◇◇


どこまでも日の射し込む長くのびた縁側に、整った顔立ちの青年が1人、その長い脚を綺麗に折りたたんで座り、眼前に広がるこれまた広大な庭園を眺めている。

上品なしつらえのスーツに負けることのない大人びた雰囲気の彼の年齢は、実際には先日高等学校を卒業したばかりの18才。
名は、大橋 大治郎(おおはし だいじろう)という。

日本屈指の財閥・四菱の跡取として生まれた彼は、未来の経済界のトップとなるが為に全ての時間を費やしている。

今こうして山奥の旧家の庭先にポツンと座っているのも、日向ぼっこをするためではない。

この家の主は、『御空加々見(みそらかがみ)』という名の古武術の正当後継者。古来より受け継がれてきた戦闘術を現代の世に普及させる為に存在している、というのが表の顔。

真の顔は、江戸の代には『隠密』と呼ばれ政治の裏で暗躍し、今なお権力者たちの闇の手足となる集団。『天狗』と呼ばれるその一族の当主が、この屋敷の主であった。

この国の経済の上に立つには無関係ではいられない裏の実力者に、次期四菱総裁として挨拶をするために大治郎はこの山奥まで来たのだ。

その使命も先刻50畳ほどもある客間で羽織袴姿の厳めしい顔つきの男性と2、3形式的な言葉を交わすことで終了し、大治郎をここまで連れてきた大橋家付きの執事が本題である依頼の話を切り出す為に彼を先に退室させた。

そういった経緯で大治郎は春の柔らかな日差しの中で大人しくぼんやりせざるを得ない状況にいるのだ。

「……すっげー田舎」

ポツリと溜め息混じりに呟いた独り言に、

「大自然って言えよっ」

返答があったのだから大治郎は驚いた。ビックリ仰天と言っていい位に驚いた。
なぜなら声に加えて子どもが1人、軒先から降ってきたのだから。

「にーちゃんユーウツそうだな。春がきたってのにさっ」

縁の先の土の上に着地した少年は靴も靴下も履いておらず、足の裏を軽く手ではたいて土を落とすと磨きこまれた板張りの縁側に上がり大治郎の隣にしゃがみ込む。

「信乃、知らね?」

どんぐりに似た瞳で見上げ、問いかけてきた少年は、長袖のTシャツに大きなポケットのついたハーフパンツという至って普通の小学生の格好。

もし葉っぱで出来た帽子なんか被ってたら間違いなく妖怪か妖精の類だと判断しただろうな、と冗談混じりに考えつつ、大治郎は突然上から振ってきた者が人間の子どもであることに安堵し、幼い頃から感情をコントロールする術をたたき込まれてきた彼はすぐに平静を取り戻した。

「シノって……この家の、可愛い顔の子?」

「そーそー、カワイー顔でオレと同い年のやつ。どこいる?」

「さっき会って…まだ当主の横で客の話聞いてるんじゃないかな」

「え〜……」

肩をガックリと落としあからさまに落ち込む少年を、大治郎は眺める。感情によってクルクル変わる挙動と表情が面白かった。

「元気出せよ」

「だ〜って、左近が風邪ひいて、看病の邪魔だからって、かーちゃんに追い出されてさ。とーちゃんと進兄ィは仕事だろ。信乃がダメとなるとオレはすることもなく行くとこもなくヒマでヒマでしょーがないってコトだよ!」

「跡取り息子は色々忙しいんだよ」

己の身分も暗に交えた皮肉をこぼし、

「じゃ、俺と遊ぶかぁ〜」

大治郎はガバ、と少年に覆い被さり、脇を背中を腹をくすぐりだした。

「キァ、ヒャアーッハッハッハ!」

突然体中をくすぐられ、少年はたまらず声を上げたが、ハッと我に返り自分と大治郎の口を手でふさいだ。

「ここで騒ぐと怒られるから、外行こ」

小声で警戒を促す少年に、大治郎も神妙な表情をつくって頷き、2人はそっと縁側を降りた。



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