ΨΨΨΨΨΨ


家も、母であるという木も、雪に覆われた丘も、遠ざかってゆく。

流の瞳はその風景を映しているが、流の心には何も映らない。



―――賢



「流ちゃん」

銀色の街を見下ろす時計台の中。数センチの距離で聞こえる声。

「この街を出よう」

少し驚き、流の口から白い息がこぼれる。

「出て、どうする?」

「わからない…でも。」

賢は目を伏せ、流を抱く腕に力を込める。

「流ちゃん、勉強したいのに、学校に行けない。薬を作っても、流ちゃんが作ったことはナイショで売られてる。……この街の外では、そんなことはないかもしれない。」

頬を寄せる賢の声はひどく悲しそうだった。

「流ちゃんには、好きなことやってほしい。」

流は賢を見上げた。賢の瞳には、優しい、真っ直ぐな光が宿っている。
流の大好きな、愛しくてたまらない光。

「流ちゃんがガマンしないでいい場所が、きっとあるはずだよ。」

「賢…しかし、お前はこの街が好きなんだろう?」

賢はかぶりを振る。

「僕は、この街より流ちゃんのほうがずぅっと好き。流ちゃんといれば、どこだって平気だよ。」

喉が詰まって、声が出ない。

「朝になったらウチに帰って、出る準備をしよう」

流は、ゆっくりと頷いた。視界が、涙でぼやけていた。


つい、夜明け前の、今日の出来事だった。


共にこの街から旅立つはずだったのに。

共に生きると誓ったのに。

賢は、もういない。

殺されたから。

この、天使に―――





魔物の腕を掴んでいる、右腕の先から、ミシミシ、という不思議な音をロゼは聞いた。
同時に、その掴んでいる腕を急に熱く感じ、ロゼはどうしたのかと魔物をかえり見る。

「??!」

一瞬、何が起こったかわからなかった。

右腕に奔った、灼けるような痛み。

閃光に目が眩み、バランスを崩し落下する。
うまく、翼を動かすことができない。

激しい空気の流れの中、魔物の姿が見えた。


   なんだ  あれは


激しい憎悪の瞳で自分を見下ろす魔物の背には、つややかな青い色の羽毛で覆われた翼があった。

まるで乾期の空のようなその青を、美しいと感じ、

そしてロゼは気を失った





気づいたら、自分で空を飛んでいた。

骨のみだった翼は、肉と羽に覆われ、力強く風を切っている。

体中に、今までに無いくらいの力がみなぎるのを感じていた。
冷たい空気に、もう体が震えない。

紅い天使が地上に落下するのを見届けた後、流はさらに上空を見上げた。
ほのかに光を帯びた、ひときわ大きな雲が見える。


―――あそこか


流は、空に浮かぶ天の宮を目指し、翼を打った。



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