《22》

 

同時刻。南フランスのとあるリゾートホテルのプライベートビーチに、彼、はいた。
人気のまばらな白い砂浜にビーチパラソルとロッキングチェア、その横にはアイスレモンティーのグラスがのったクーラーボックス、というフルスペックなバカンス装備で、柔らかな風と囁くような波をBGMに学術書を読んでいる。

「生き返りますねぇ…」

背表紙で頭蓋骨をかち割れそうなくらい分厚い量子学の本を読み終え、満足げなため息とともになんとかブルー・倉石庵は呟いた。

「あ、あのっ、本当に申し訳ありません!」

庵の横、ビーチパラソルの影の外、で額が膝頭にくっつきそうな勢いで謝罪するのは今回のパリ・コレクションで彼にモデルのオファーを出したファッションブランドの、下っ端の女の子。

「わざわざ日本から来ていただいたのに、延期になってしまって…!」

「なぜ貴女が謝るんです? スポンサーの決定なんですから、仕方ないでしょう」

庵は上体を起こし、超絶麗しく微笑みかけた。それだけで彼女は顔を真っ赤にしてしまう。

「おかげで野生動物とカレー馬鹿と心配性コロボックルと根暗オタクに囲まれて仕事するストレスから解放されてゆっくり休めましたし」

「…え?」

「いえ、なんでもありません。とにかく、私は全く怒っていませんので、どうぞご自分の職場に戻ってください」

「あっ…ハイ!」

「上の方によろしくお伝え下さいね」

彼女が原チャリを走らせ去ってゆくのを見届け、ようやく庵は『悩殺美人スマイル』を崩し息を吐いた。
庵は女性があまり好きではない。扱いには慣れているが、いちいち言い寄られたり見惚れられたり勘違いされるのが鬱陶しくて、疲れる。そういう意味の溜息だった。

本日3冊目のハードカバーを開きつつ、それにしても、と庵は考えた。
この歴史あるパリ・コレクションが延期になるとは、よほどの事情があったに違いない。

一体何が起きた、いや、起こっているのか―――

理由を伏せたまま祭の延期を知らされたのは昨夜の懇親パーティーの最中だった。
数百人もの参加者の前でその告知をしなければならなかった主催者は、容赦なく疑問や不満を露にする関係者達にとにかく平謝り。
アメリカの政治家の汚職事件とそれに群がるマスコミ軍団並の大騒動であった。

でも、自分にとっては都合が良かった、と庵は思い、パーティーでのとある出来事を眉根に皺を寄せつつ反芻した。

 

 

「倉石庵、さん?」

聞き覚えのない女性の声に呼び止められ、庵はシャンパン・ロゼのグラスを片手に振り向いた。
そこにいたのは、やはり見も知らない中年の日本人女性。
だが見知らぬ相手だからといってあからさまに怪訝な表情をするほど彼は無作法ではない。

「ええ、私です」

瞬時に人好きのする笑顔を作り返答した途端、女性はきゃあぁ、と歓声に近い上ずった声を上げた。

「やっぱり! 確か本名の姓が倉石だから間違いないと思ったのよ! 本当にそっくりだわぁ〜」

彼女の騒ぎっぷりに周囲の視線が次第に集まってくるのを察し、庵は『いきなり何なんですかこのオバサマは』と心の中で毒づきつつも表面上は笑顔のまま、女性を落ち着かせようと冷静に努めた。

「あの……失礼ですが、何のお話で」

「あっ、ごめんなさい! あなた、あの大女優のMIYAKOさんの息子さんよね? 私、大ファンなの!! だからMIYAKOさんにそっくりなあなたを見つけた途端、嬉しくなっちゃって……」

女性の無邪気な言動の中の『大女優MIYAKO』というキーワードに、周囲の関心はいっそう高まり、あっという間に10数人ほどの野次馬が庵を取り囲んだ。

「あぁ本当だ。あのMIYAKOにそっくりだね」

「お母様似なのね」

「君はモデルなんだろう? 大女優の息子がモデルか。当然と言えば当然だな」

「MIYAKOはフランスと日本のハーフだっけ? じゃあ君はクウォーターか。確かに体形も顔も日本人離れしているね」

「確かMIYAKOのご主人はTKコンツェルンの総帥だったよね?」

「お母様が大女優でお父様が総帥?! まさにサラブレッドだな!!」

次々と繰り出される質問やら驚嘆やらに、庵はただただ笑顔で応えた。

母親のMIYAKOこと都子が世界的に有名な女優で、フランス人系ハーフだということは事実。
父親の拓が一代で巨大産業グループ『TKコンツェルン』を創りあげた実業家だということも事実。

事実なのだから、否定することもない。
羨望の眼差しで見られることは幼い頃からの慣例なのでなんとも思わない。
が、取り囲まれるのは鬱陶しかった。

庵は彼らの興味が一秒でも早く沈静化されることを願って、微笑を湛えたまま心にもない「ありがとうございます」をひたすら繰り返す。
忍耐の甲斐あってその場は穏便に収まろうとしていた。その、一言の前までは。

「君は新人だよね? 有名モデルを差し置いてパリデビューなんて、ご両親に感謝しなくちゃいけないよ」

ピリ、と空気が悲鳴を上げたのを、その場にいた全員の耳が捉えた。が、それを気にした者など一人としていなかった。……庵以外は。
空気が歪むほどの激しい怒りの感情を一瞬だけ爆発させた彼は、しかし誰にも悟られることなく相変わらずの綺麗な笑顔で

「ええ、そうですね」

と穏やかに答え、

「失礼ですが、これで」

と一礼してその場から離れようとした、が、何人かが名残惜しそうに後をついてこようとする。
顔に端整な笑みを張り付かせたままで振り返り、適当な理由をつけて追い返そうとしたその時、だった。
会場の中央ステージで今回のファッションショーの延期が発表されたのは。

混乱に乗じて、庵はパーティー会場を抜け出した。
会場となったホテルの隅の人気のないトイレに辿り着くと、庵はようやく貼り付けていた表情を拭い去る。

「ふざっ……けるな!!」

ダン、とタイル張りの清潔な壁に拳を叩きつける。
頑丈な白いタイルは何も言わず、庵の左手だけがジワリと痛んだ。

だがその痛みが気にならないほどに、庵は怒っていた。

「……両親に感謝、だと?」

今回、パリ・コレクションにモデルとして参加できたのは、行きつけの某有名ファッションブランド店でそのブランドのチーフデザイナーに声をかけられた偶然と、就業後や休日を全て費やしての過酷なモデル修行に耐え抜いた庵の努力の賜物に他ならない。

これまでに何度、栄光のスポットライトを浴びるたびに親の七光りと言われてきたことだろう。
賞賛や羨望には慣れたが、これだけは耳にタコが出来るほど言われ慣れているのに我慢がならなかった。

母親のMIYAKOこと都子が世界的に有名な女優で、フランス人系ハーフだということは事実。
父親の拓が一代で巨大産業グループ『TKコンツェルン』を創りあげた実業家だということも事実。

事実だけれども。

鏡に視線を合わせる。
美貌の青年が眉を吊り上げこちらを睨みつけていた。
母の若い頃ににそっくりだというこの青年の容姿が庵は大好きで、その遺伝子をくれたことだけは、母に心から感謝している。

でも、それだけ。

その両親から何かを貰った記憶など、庵には全くと言っていいほど無かった。

庵は広い豪邸にたった一人、メイドや家庭教師に育てられたようなものだった。
両親は多忙なスケジュールにかまけ、庵が待つ家にはほとんど帰らず、たまの休みでさえ南国の別荘で夫婦水入らずで過ごしていた。
現在ですら、彼らは庵がまだ学生だと思い込んでいるのだ。

だから庵には両親に対して、「血がつながっている」と認識はしているものの、情や感慨などは全く無い。
そんな「血がつながっているだけの他人」が、自分の行く道を阻む。
どんなに努力しても、『遺伝子がいいから』とか『親の力添えがあるから』と言われてしまう。その度に庵は自分自身のことなど誰も見てくれていないのではと、寂しくて腹立たしくて泣き叫びたくなる。

「ふざ、けるな……」

洗面台で顔を洗い痛んだ左手を冷やすと、ようやく気が落ち着いてきた。
頭の中で暗く渦巻いていた罵詈雑言の嵐がゆっくりと晴れてゆく。
庵は長くゆっくりと息を吐いた。

「ひさしぶり、ですね。こんなに腹が立ったのも」

今の職に就いてから、自分の能力や容姿を羨まれたり、両親と重ねられたりすることがなくなっていたことを庵は思い出した。
今の仲間たちは、口が悪いのも若干名いるが、自分と真正面から向き合ってくれる。
たとえ野生動物でも、カレー馬鹿でも、心配性コロボックルでも、根暗オタクでも、庵にはそれが嬉しかった。

 

    

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