《26》
ヤーマは床に仰向けになり、口の中を切ったのか血の混ざった唾を吐き出した。
「……俺が道を逸れたり見失ったりしたら、すぐに駆けつけて、殴ってやる、ってお前は帰国の日に言った」
自分を見下ろす親友に微笑む。
「ありがとう」
善太の怒りの表情の上に、悲しみの色が混ざった。
「そんな顔するな。お前は約束を守ってくれた」
ヤーマはようやく床に手をついて半身を起こした。窓の下の壁に寄りかかると、善太もその横に腰を下ろした。
「おかげで、目、覚めたよ。」
親友の表情から陰が消えたことに安堵し、善太は硬直していた顔を少し緩める。
「何が、あった?」
親友の優しく静かな問いかけにヤーマは深く息を吸い、長く息を吐いた。
「……俺の兄、が動きだした。ファミリーを乗っ取ろうとしている。」
ヤーマの口調は極めて軽かった。たいしたことではない、と善太に思わせるように。自分に思い込ませるように。
「俺がトップになった時から、『弟のくせに』自分より偉くなるのが面白くなかったらしい。兄弟といっても腹違いなのにな。」
結局は妬んでいるだけだろう、とヤーマは声をあげて笑った。
「手伝うか?」
善太は立ち上がり、ヤーマの前に手を差し伸べた。ヤーマが立ち上がるのを手伝うため。
そして言葉はそれ以上の意味を持っていた。
ヤーマはその大きくて体温の高い手を握り、立ち上がる。
「大丈夫。こっちは俺らだけで出来る」
「本当か?」
ヤーマの目の前の男は全力でヤーマを心配してくれている。その理屈抜きの純粋さは裏の世界で権力を扱う彼には眩しすぎた。
しかし羨むような感情を抱くことは決して無い。むしろ、彼のように純粋な者たちを守りたくて抗争を戦い抜き今の地位を勝ち取ったことを思い出させてくれる。
だからこそ、これ以上頼りにしてはいけない気がするのだ。善太をこちらの都合に巻き込んで死なせてはいけない。
「ゼンには沢山助けられたから、もう十分だ」
「そうか」
2人とも、それ以上の言葉は不要だと悟っていた。だから2人とも互いに視線を交わし、そして窓の外の鮮やかな空を茫と見あげた。
「今夜、俺の家来るだろ? 親父の墓に寄ってからさ」
ヤーマが視線を空から隣に立つ善太に戻して言った、その時。
無数の銃声が建物内に響き渡った。
「4階鎮圧終了しました!」
「戦闘可能な者は何人残っている?」
「23名です。死者は居ませんが約半数が重傷を負っています」
一兵士が上官に報告する後ろで、兵士同士は武装に付着したタイ人の返り血を拭いつつ小声で会話をしている。
「さすがタイ最強最大の裏組織、か。実戦経験の少ない俺ら日本人じゃかなり厳しいな」
「『金獅子』がいきなり来られなくなったから、しがない自衛隊の俺らが行くことになったんだろ? 『金獅子』と『梟』の仕事だったのによ」
「ああ。……ったく、『金獅子』が。バケモンのくせに仕事サボってんじゃねぇよ」
「おい、後ろ…!」
注意された側は振り返ることは出来なかった。いつの間にか背後に立っていた一人の庸平に頭を片手で掴まれていたからだ。
「ふ、『梟』さん…!」
突然現れた黒い具足の男『梟』に、周囲の兵士達は驚き慌てた。
「先の科白……『バケモン』は取り消して頂きたい。『金獅子』もお主達と同じ人間でござる」
語調は丁寧だが、覆面の間から覗く眼は鋭く光っており、無駄話をしていた兵士達は震え上がった。
「隊長殿」
梟 と呼ばれた戦士はようやく兵士の頭を手放し、一小隊の隊長の前に進み出た。
「これより先は危険ゆえ、拙者一人に任せてはくれぬか?」
梟は佇まいからして常人のものではない。隊長は気圧されそうになりながらも果敢に声を張った。
「いえ、自分達の任務は『梟』殿の援護とターゲットの捕獲。最後まで共に闘うであります!」
敬礼する隊長に続き、兵士達も皆、姿勢を正し敬礼する。その輪の中心で梟はフ、と息を吐いた。
「承知した。しかし危険と感じたらすぐに逃げよ。命を投げ打つなどと馬鹿げた真似だけはせぬように。よいな?」
「「「はっ!」」」
24人分の頼もしい声が上がり、そして最後の、タイマフィア事務所最上階・ボスの執務室の扉が開け放たれた。
錆のまわった重い鉄の扉が軋んだ音を立てて開いた。と同時に室内のあらゆるモノに銃弾が浴びせられた。