◇◇◇

 

キッチンでは残された2人が惨事の後始末をしていた。

「気にすんなよ」

「気にしますよ」

睦実の返答に、床をふいていた雑巾をペシペシ叩いて右近は笑った。

「むっちゃんは正直モンだな」

「気にして当然でしょう?怒ってはいませんけど……ショックでした」

「むっちゃんと違って、庵は嘘つきだからな」

もぉ分かってるよねー? と、シンクで雑巾を絞りながら明るく問う右近に、睦実は狼狽えながらも頷いた。

「庵はさ、ヒトが怖いんだろーね。俺も何度も『触るなオーラ』出されたよ。あの、明美、知ってるよな?超癒し系の、明美が触ってもダメだった」

「明美…さん、も」

あの小さくて優しい明美も拒絶されたなんて。
人と自分を比較する気はなかったが、睦実は胸のつかえが少しだけ和らいだ気がした。

睦実も立ち上がり、雑巾を絞る。その横で右近は既に調理に戻っていた。

「多分理屈じゃないんだろね。だから、ウソついて、強がって、自分を守ってる。他人なんて怖くないって」

右近は手早く野菜を刻む。包丁とまな板が奏でる軽快な音色と右近の声が、『なんでもないよ』と睦実の心を溶かしていくようだった。

「睦実は、庵のコト、好き?」

「え……」

不意の問いかけに睦実は右近の手元から顔へ視線を戻した。質問の意図も意味も分からず睦実は戸惑い、答えることが出来なかった。
右近は大きめの鍋で刻んだ野菜を炒めながら、言い方が悪かったな、と笑った。

「大好きな、友達?」

言い直した右近の質問に、睦実はゆっくりと頷いて答えた。

「じゃあさ、庵のコト、よろしく頼むよ。」

――庵が、ウソつかなくても一緒にいられるヒトになって欲しい。

右近の願いに、睦実は素直に頷けなかった。

「あなたでは駄目なんですか?」

右近は、庵をこんなにも理解しているというのに何故、自身がその存在にならないのか。
意地の悪い問いだったのかもしれない。しかし何故だか悔しかったのだ。自分よりも右近の方がより深く庵の心情を察せたことが。

「俺じゃ駄目だよ」

変わらず笑顔のままの右近に、睦実は苛立ちを覚えた。

「何故です?」

不意に、右近の手が睦実の右手を捉えた。
睦実は驚き、慌ててその手を振り解こうとするが、右近の捕らえる力の方が強く、右手を両手でガッチリと握られたまま離れることが出来ない。

「俺は、庵以上に嘘つきだから」

右近は笑顔を崩さないまま、睦実の両手を片手で封じ、余った左腕で睦実の肩を抱き寄せた。

――怖い

右近の体と接触した箇所から、冷たいものが流れこんでくるような気がした。
声を上げ、腕をメチャクチャに動かして拒絶したかった。しかし、睦実の体は硬直したまま言う事をきかない。

「庵には触れたのに、俺に触られるのは嫌なんだ?」

睦実を抱きすくめる男は、意地の悪い口調で睦実の耳元に囁いた。その息づかいを感じる度に睦実の体は熱を失ってゆく。
今まで楽しく笑い合っていたはずなのに。
明るくて気の良い右近の気配は、もうどこにも見つからない。

「嘘を見抜くの、上手みたいだけどさ、本当に厄介なのは、嘘をつく奴じゃないよ。嘘をつきすぎて、自分でもどれが本心かわかんなくなった奴だよ。」

俺の心、見抜けなかっただろ?と彼は笑った。

「だからさ…」

睦実の両手の拘束が解かれた。右近は両の手を睦実の肩に置き、真正面から見据える。睦実は動くことも、目を逸らすことも出来ずにいた。
笑みの消えた彼の目は鋭く、静かで、暗くて…

――怖い

――庵さん……!

 

「俺みたいになる前に、庵を助けてやってよ」

ね? と右近は笑った。
いつも通りの明るい笑顔で。

睦実は呆け、そして緊張から解放されると同時に一気に体の力が抜けてしまった。
大きく息を吐き、床にへたりこみそうになるのを右近が抱きとめる。

「……離してください」

右近は笑顔のまま、何かを言い返そうとした、が、瞬間、その笑顔が固まる。

睦実の鼻先を、風が通り抜けた。

「庵さん!」

今まで右近の頭があった場所に右ハイキックを空振りした庵は憎々しげに舌打ちをした。

「あれ庵、もう戻っていらっしゃったの〜?」

しゃがみこんで庵のキックを避けた右近は跳躍してキッチンワゴンを飛び越え、キッチンとひとつづきのダイニングへ逃げる。

「ダメだよ〜?火のあるトコではしゃいじゃあ」

「イエロー、睦実さんに何してたんですか!」

庵は怒りも露わに右近を追いダイニングへ走る。

「休日はコードネームで呼ぶな言ったの庵じゃん」

人のコトいえない〜、と右近はダイニングテーブルの向こうで挑発的に笑う。
庵の踵落としは外れ、テーブルが右近の代わりに悲鳴を上げた。

「今ね、火にかけてるの、ひよこ豆のミネストローネ!あと40分弱火で煮込んで出来上がりね!」

右近は庵の正拳突きを避けてダイニングの向こうのリビングへ走る。

「材料は、ひよこ豆とトマト・タマネギ・セロリ・あとガーリック・クミン・カイエンペッパーとターメリック少々。豆と香辛料は俺が買った奴だけど、お土産ってコトで気にすんなよな!」

庵の中段蹴り。また、外れ。

「右近っ、ふざけるのもっ…!!」

「え?作り方も聞きたい?」

右近は跳び上がり回し蹴りを避けた。ソファが吹っ飛ばされ壁にぶつかる。
着地した右近は庵の蹴り足を左手で掴み彼の懐に入った。

「!!」

庵は右拳が来るのを予測し両手で顔をガードした。が、

「なんでそんなに怒ってるの?」

右近は庵の耳元に口を寄せて小さな声で問うた。

「俺と睦実が仲良くしてると、なんで庵はムカつくんだろね?」

「え……」

庵は言葉を失った。
右近は素早く庵から離れ、自分の荷物を背負うとバルコニーへ続くガラス戸を開けた。

「右近さん?!」

2人を追ってリビングへ来た睦実が悲鳴混じりの声を上げた。
右近が、バルコニーの柵を飛び越えて宙に舞ったのだ。

「オホホホホ!また遊んでね〜〜!!」

オ〜ホホホホ、という笑い声が建物の合間で反響し、どんどん遠ざかってゆく。

睦実はバルコニーに出、アルミの柵に手をかけ下を見下ろした。
27階から人間が飛び降りて無事な筈がない。
と、自分のすぐ横に先端にフックのついたロープが柵に引っ掛けてあるのを発見し、睦実は呆れたような安心したような溜め息をついた。

「右近さん……」

 

 ◇◇◇

 

「ちょおっと突っつきすぎたかな〜?でもブルー友達少ないからさー気になるんだよね〜」

右近は命綱をつたい順調に落下しながら一人反省会をしていた。

「本気でぶつかり合える相手ってレッドくらいなモンだしさ。 レッドは天然だからな〜 心の内全部見せるのは難しんだよな。 睦実サンならブルーのツライ部分も全部受け止めれると思うんだよな〜」

2階分の高さまで下ってきたので落下速度を落とし、着地体勢にはいる。

「でも睦実サンと喋るのかなり楽しかったし、また俺とも仲良くしてくんないかな〜 かなり怯えてたからもぉ無理かな〜〜」

着地地点の中庭の芝生まであと3メートル、のところで急に命綱が揺れた。
ガクン、という衝撃の後にロープと右近は共に急落下し、

「ぉギャア!!」

残り2メートル85センチを真っ逆さまに墜落して右近は芝生に激突した。

 

庵ははるか下方の中庭を睨み付けていた。

「命があるだけありがたいと思いなさい…」

命綱のフックを外したのは、彼だった。

 

    

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