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庵の部屋にやってきた連賀は、黒のジャージに長袖のTシャツとその上にいつものレザージャケット、足元は素足につっかけのサンダル、そして不精に括っただけの長髪、というなんともちぐはぐな格好をしていた。きっと慌てふためいて明美を探しに方々を駆け回っていたのだろう。運動不足気味な彼は息を荒くしている。

そして彼は、明美の前に立つなり、ガバ、と本当に土下座をした。

その長身が床にへばりつく様に明美と睦実は動揺を隠せない。

「っれ、連賀?! ……もう、いいよ。立って、お願いだから」

明美の悲鳴交じりの哀願も聞かず、連賀はただただ床に額をこすりつける。
そこへ、唯一人特に驚きもせず冷ややかな目で彼を見下ろしていた庵が口を開いた。

「そんなことで済むとでも思っているんですか?」

「えぇっ??!」

ドS発言とも受け取れる言い草に、明美のほうが驚き目をむいた。連賀は何も言わず同じ姿勢をとり続けている。

「言い訳をしないのが美学とでも? 今は、なぜ明美を傷つけるような言葉を吐いたのか、ちゃんと口で説明するべき時でしょう?」

そしてソファに座るよう、目線だけで命令する。彼はそれに逆らえるはずもなかった。
明美も睦実に促され連賀の差し向かいに座ると、連賀は口を開き、ポツリポツリと言葉を落とした。

「……電話の会話、聞いたんよな、明美」

明美が頷くと、連賀は謝罪の意を表明するように身を縮ませた。

「……すまん」

「どういうことなんですか?」

庵は刺々しく言いながら、明美の隣に腰を下ろす。睦実も庵に促され連賀の隣に腰掛けた。睦実の隣に座る男は長身なのに覇気がまるで無く、今にも消えてなくなってしまいそうだ、と睦実は非現実的なことを思ってしまった。

「……あの、電話。親戚からで。 見合いせんか、てしつこくて。せやから『彼女おる』言うた……そうすりゃ諦める思て」

低くて小さくて聞き取りにくい声の、わかりにくい説明を、それでも庵は理解し呆れたように息を吐いた。

「それを明美が聞いてしまったんですね? 全く…彼女の名前を『明美』にしなければ、こんなに泣かせることもなかったでしょうに」

「……明美は……ワイの一番大事やけん。男やから『彼女』やない、けど、……こういうときに他の名前出すなんて、嫌や」

「連賀……」

明美の顔がみるみるうちに紅潮し、瞳には涙が溜まってゆく。

「すまん、明美。…すまんかった」

連賀は長い足でテーブルを一跨ぎし、明美を抱きしめた。

「れんっ…」

連賀とは違い人目を気にするタイプの明美は、庵と睦実の前で抱きしめられた恥ずかしさから苦情の声を上げる、がその声は連賀の覆いかぶさる長身にくぐもって消えてしまった。
見ていられない、と庵は思い席を立つ。睦実もそれに続いた。
リビングから廊下に出、ドアを静かに閉める時に、ドアの装飾窓のガラス越しに、明美の腕がためらいがちに連賀の背中にまわされ、それでもやはり人目が気になるのか宙を掻いて下ろされる、のが見えた。

「見てられませんね」

庵が眉間にしわを寄せて溜息をつく、その横で睦実は微笑んだ。

「でも、一件落着で、よかった」

「ええ、まぁ」

これで睦実と二人でのんびりと過ごせるのだから、リビングが少しの間立ち入り禁止になって、リビングと一続きのダイニングにもキッチンにも入れなくなっていても、異存は無い。そう思い、庵も微笑を睦実に返した。

「お見合い……ですか」

「連賀も今月で三十路ですし。周囲がうるさく言うのも仕方ないでしょうね」

「……庵も?」

不意に問いかけてきた睦実の表情はどことなく寂しそうで、不安げだった。庵は少し意表を突かれたが、柔らかな笑みを向ける。

「私は…まだ身を固める気はありませんし、そうですね…多分、一生しないかもしれません」

連賀よりもかなり若いですし、と付け足して庵は笑い、睦実もつられて笑った。
その睦実の笑顔に安堵する一方で、庵の頭を不安の影がよぎる。

親の、影。

一代で財を成した父親と女優の母親は、今まで自分のことを放置し、進学にも就職にも全く口を挟まないでいてくれた。でも、それは今までの話だ。未来は、わからない。
どこかの富豪の娘と強制的に結婚させられ、父の会社を継がされる可能性だって全く無いとは、言い切れない。

庵は結婚というものに何の希望も興味も抱いていなかった。
両親の夫婦仲が悪かったせいではない。むしろ、あの2人は今でも互いを愛し合っている。……息子には目もくれずに。ひたすらに相手だけを見つめて、求め合って。
だから逆に『恋愛』というものが庵には我侭で、はた迷惑で、醜いものに思えてしまうのだ。
庵に言い寄ってくる人間にしてもそうだった。自分の気持ちを押し付けようとして、我侭で、はた迷惑で、醜い―――
自分がナルシストになったのには、そういう要因もあったのだろう、と庵は自覚している。他人を、愛する気になどどうしてもなれない。だから一生独りでいいと思っていたし、親の都合で見合いをさせられ結婚…でも、いいと、思っていた。

でも。このごろは。睦実と一緒にいるのが、とても楽しい。落ち着く。一生共にいられたらいいのに、とふと考えてしまうのだ。そんなことが出来るはずも無いのに。

「庵?」

急に黙ってしまった友を心配そうに呼ぶ睦実の声で、庵は思考を引き戻された。

「どうかしましたか?」

「いえ……寒くなってきたので睦実の誕生日ももうすぐだな、と思いまして。2月11日でしたよね?」

咄嗟にはぐらかした庵の話題に、睦実はうれしそうに頷く。

「覚えててくれたんですね」

睦実が些細なことで喜んでくれるのが嬉しくて少し照れくさくて、庵は彼から視線を少しそらした。

「季節が、移るのは早いですね…… 睦実ももうすぐ二十歳なんです、よね」

「……ええ」

睦実の顔がまた少し曇る。先程よりも深く、悲しげに。
そんな顔を庵は一秒たりとも見たくはなかった。どうしたのかと、問おうとした、その時。

「あの……倉石」

リビングに続くドアが開かれ、明美がためらいがちにやってきた。その後ろを、まるでボディガードが背後を守っているかのように連賀が続く。

「もう、お暇するね。倉石も、睦実さんも、僕らのケンカに巻き込んじゃって、ゴメンなさい」

明美が頭を下げ、ワンテンポ遅れて連賀も頭を下げる。

「明美は、気にしないで下さい。仲直り出来てよかったですね。……連賀は、大いに気にして、反省してくださいね?」

にっこりと微笑みながらの庵の言い様に、明美は頬を赤く染め困ったように笑い、連賀は憮然とした表情を僅かに浮かべた。

「突然お邪魔しちゃって、本当にゴメンね? じゃ、 ……あ、睦実さんも、また一緒に料理しましょう?」

「ええ、喜んで」

庵と睦実は玄関まで2人を見送った。
振り返り振り返り頭を下げ、控えめに手を振る明美と、その隣をふらりふらりと歩く連賀の姿がエレベーターホールへ向かい、角を曲がって消えるのを見届けると、2人は玄関のドアを閉めた。

「夕食、食べていってもらっても良かったのに」

キッチンに戻り、庵と睦実は調理を再会した。

「誘っても断っていましたよ。あの2人はこれから反省会でしょうから」

3、4人分で用意を始めてしまってた調理しかけの食材たちをどうしようかと思案しつつ、庵は睦実へ言葉を返す。

「庵って、あの2人には手厳しいですね」

「そうですか?」

「特に連賀さんには」

睦実は特に責めたり非難する口調ではなかったので、彼の指摘を庵は「そうかもしれません」と、笑みと共に肯定した。

「……あの2人は多分、ずっと一緒にいる。それが、なんだか妬けてしまうのかもしれません」

それは、意識する前にスルリと口から出てしまった言葉だった。言った後で庵は言葉を反芻し、自分のことながら動揺してしまった。

「えっ、あの、『妬ける』というのは…その、な、なんでしょうね」

睦実とずっと一緒にいたい。そんな叶いそうもない願いの断片を口走ってしまった。睦実に伝えても彼を困らせるだけだから隠していようと思っていたのに。

「庵……」

睦実は言い繕う庵をじっと見つめる。その瞳には自分の虚栄心や虚言癖を封じる力があると庵は知っていたから、あわてて親友から目を逸らした。

「な、なんでもないですよっ …それより、玉ねぎとトマトを切りすぎてしまいましたね。もう遅い時刻ですからあまり手の込んだ料理は出来ませんし、どうしましょうか」

話題を無理に変える親友の真意を確かめることを無為だと悟り、睦実はこっそり息を吐いた。

―――庵、あなたが何故口を閉ざすのか、何が言いたかったのか、教えてくれませんか?

―――庵、二十歳になると言ったとき、オレがなぜ元気をなくしたのか訊いてくれませんか?

「ベイクドトマト&オニオンと、トマトのサラダと、玉ねぎの鰹醤油和え、でいかがですか?」

「そう、ですね。そうしましょう」

そして当初の予定より二時間遅れで、庵宅恒例の料理会は始まった。普段にも増して努めて明るい雰囲気で。

 

    

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