【風の中に消えた】
2月。関東地方が一年でもっとも凍える真冬。雪が今にも降り出しそうな曇天だった。
寒風吹きすさぶお台場の海岸には人っ子一人いない。
人工の砂浜に寄せては返す小波が、不意に大きなものへ変わり、次第に飛沫を上げ、そして海上に人の頭がひとつ飛び出、大きく息を吐いた。
もしこの海岸に閑古鳥が鳴いていなければ、きっと大騒ぎになっていただろう。しかし海からやってきた当人はそんなことを全く考えず、波に流される砂を踏みしめ陸に上がった。
ブルル、と犬のように体を振るって水気を飛ばし、必要最低限の物しか入っていない防水性のリュックサックから衣服を取り出して身につける。
と、そこへ風に煽られた新聞紙が彼の頭上へ飛んできた。彼はそれを空中で掴み、シワを伸ばして紙面に目を通す。
「……アイツ、変わった」
呟き、新聞紙をたたんで荷のポケットへ入れた。そして彼はカーゴパンツのバックポケットから薄く潰したスニーカーを取り出し、素足のままそれを履く。
「日本は服も靴もちゃんと着てないと変な目で見られるのが面倒だな……」
グチるように言いながら、彼はビル郡の方向へ歩き出した。
―――ほぼ同時刻。
『山おろし』と呼ばれる強い寒風が吹き荒れる、とある山奥。
周囲よりぬきんでて高い一本の木の上に、男が一人、立っていた。
地上数十メートルの枝の上、しかも強風で枝は激しくしなる。しかし彼は背筋を伸ばして2本の足だけで直立し、雑誌を読んでいた。脱色されたクセのある髪が風に煽られるのもものともせずに、彼は平然とページをめくり、呟いた。
「……どーしたんだよ、アイツ」
そして何かを数えるように指を折る。
「あ、今日じゃん。ちょ−どいいや。……と、やっぱ許可とんないと怒られッかな……ん〜……」
しばしの、思考。
「しゃあねぇ。シンパイも〜メーワクも〜、かけたくないしっ 連絡してから出かける俺って超イイコ〜♪」
歌うように言いながら、枝から跳躍し地面めがけて急降下する。
最後の3メートルを猫のように回転して手近の枝を掴み、彼は身軽に枝を伝って山の中腹にある自宅を目指した。
****************
どんなに、悲劇があったとしても。
身を裂かれるような別離があったとしても。
深い悲しみ、絶望、後悔、に心を灼かれ、明日など来なくていいと思っていても。
朝日は昇り、日々は続いてしまう。
庵はベッドの上で、天井を眺め、そして目を閉じた。
冬の始まりのあの日―――彼の親友が彼の前から姿を消した日以来、庵はほとんど眠れずにいた。
睡眠に当てていた時間をもてあました彼は、本職のモデル業や副業の初物取引など、仕事をすることで暇を潰した。そうすることで親友を失った虚無感を埋めようとしていたのかもしれない。
休みなく働いて、体の電池が切れたときだけ数時間眠る。時間の感覚すら無くなっていた彼に今日の日付を教えてくれたのは彼のマネージャーだった。
今日は、2月11日。―――笹林睦実の、誕生日。
彼と会えなくなるなんて思いもしなかった頃に、この日だけは一日中オフにしたいと繰り返し繰り返しマネージャーに釘を刺していたことを、庵は昨夜スケジュールを言い渡されたときにようやく思い出した。
そしてほぼ4ヶ月ぶりの休暇をもらった庵は久しぶりに自宅のキングサイズベッドの上に横たわった。庵自身も体力の限界を感じていたので、ゆっくりと眠って体を回復させようと思った、のだが。
どうしても、眠れない。
思い出してしまうのだ。このベッドで共に寝た親友のことを。ベッドだけではない。この家は彼との思い出で一杯だ。思い返せばキリがない。
初めて睦実が家に来た時。とっておきのブルーマウンテンコーヒーを出すと、彼は笑顔で、しかも一気飲みと言ってもいいペースでそれを飲み干した。てっきりコーヒーが気に入ったのかと思い二杯目をカップに注ぐと、彼は喜んでそれも飲み干した。実はコーヒーが苦手なのだと彼が打ち明けたのは、それから一週間後のことだった。
学生の頃から作り始めた株変動のデーターベースを睦実に見せた時。彼はそれを食い入るように読み始め、4時間ほど書斎から出てこなくなった。自分は放って置かれた気分になり機嫌が悪くなったが、書斎から戻ってきた睦実の満足げな顔を見るなり寂しかったことなどどうでもよくなってしまった。
大好きなトマトを、食べ過ぎないようにと指摘されたこともあった。B型の庵はモンゴルの騎馬民族がその血のルーツなので、南国原産の体を冷やす作用のあるトマトとは相性が悪い、と言われた。血液型判断などいい加減なものであるし、トマトは栄養満点で好きなだけ食べても害にはならない、と反論した。思えば、あれが一番最初で、一番くだらない喧嘩だった―――
思い出す暇を自分に与えてはいけなかった。
視界には薄暗い天井。それが次第にぼやけてゆく。
ベッドの上。意識は覚醒し続けるが体は力を失って動かなかった。
涙がこめかみを伝い、耳の中に入る。その地鳴りにも似た音を庵は聞き続ける。
外はもう暗いのに。体は疲れているのに。眠りたいのに眠れない。変に、焦る。鼓動が、早くなる。もがけばもがくほど、平穏から遠ざかっていく。
―――ああ。
ずっと、そうだったのだ。睦実が消えてから、ずっと。
―――もがき続けていた。まるで夜中に目が冴えてしまった時のように。
悪夢は目覚めれば終わる。
でも、眠れぬ夜は終わらない。
夢の世界へ逃げ込むことも出来ないまま、夜が重なるたびに心は潰れてゆく。
―――睦実。
親友のいない日々が積み重なり、心が潰されてゆく……
気付くとカーテンの向こうは明るくなっていた。サイドボードの時計は正午過ぎを指している。
庵はよろよろとベッドから降りると、耳の上辺りの髪がびしょびしょに濡れていることに不快感を覚え、バスルームへ向かった。
軽くシャワーを浴び、バスタオルで体を拭いつつ、脱衣所にかけられた大きな姿見に自身を映す。庵はナルシストゆえ、彼の家の随所にはことごとく全身を映す位に大きな鏡が取り付けられている。
しかし、眠れなくなった頃と前後して、庵は鏡をろくに見なくなっていた。
久々にじっくりと見た己の姿は目を疑うほど様変わりしており、庵は静かに、しかし深く驚かざるを得なかった。
「ふふっ」
呆れたように笑う、鏡の中の男。
顔色は良く言えば白雪、平たく言えば蒼白。
もともとほっそりしていた頬の肉が更に落ちてシャープすぎる輪郭を作り。
そのせいで逆に目は大きく見え、鋭利な光を爛々と瞳に宿している。
体は骨の上に薄い筋肉を一枚とその上に皮膚を纏っただけとなっており、絶妙な量の脂肪によるすべらかな曲線は失われていた。
「……まるで連賀みたいですね」
不健康で痩せぎすの元同僚を思い出してしまう体格。
スキンケアだけはかろうじて惰性で行っていたので肌の調子は悪くなく。
髪や眉はスタイリストの手によってきっちりと整えられているし、不精髭もない。
色白で細く痩せた体には以前よりも多くの衣装が似合うようになったけれども。
今の自分は、全く好みではない。美しくない。
「…………!」
だん、と鏡に拳をぶつけた。鏡面にはヒビひとつ入らず、その向こう側で痛んだ手を押さえた男がこちらを睨んでいる。
物心つき始めた頃から興味を惹かれ、思春期には最愛の者となり、20余年愛し続けてきた鏡の向こうの人物に、今はもう、何の興味も欲求も湧かないのだ。
「……っ……」
庵は、笑った。
声も涙も出なかった。
体の中がカラカラに乾いて、胸に大きな穴でも開いているようで、しかし穴の底には大量の澱が溜まっていて。どんなに息をしても笑っても、体の中に綺麗な空気は流れない。
―――ピンポーン
インターホンの音に庵は現実に引き戻され、意識が少しの間途切れていたことを自覚した。
いつの間にか蹲っていた体を立ち上がらせて、玄関へ向かう。
チェーンをかけたまま鉄製のドアを開けると見覚えのある顔がひとつ、ドアの隙間から覗いた。