―――ピンポーン
インターホンの音に庵は現実に引き戻され、意識が少しの間途切れていたことを自覚した。
いつの間にか蹲っていた体を立ち上がらせて、玄関へ向かう。
チェーンをかけたまま鉄製のドアを開けると見覚えのある顔がひとつ、ドアの隙間から覗いた。
「やっほ〜いおりん☆ って、ちょ、全裸??! イヤ!もう、大胆すぎ!!!」
元同僚・帯刀右近は、いや〜ん、と気味の悪いほどに体をくねらせて手で顔を覆う(しかし指の隙間を開け視界を確保している)。庵は間髪いれずに勢い良くドアを閉めた。
「ちょ、待って! いぢわるしないで開けてよおぉっ」
鍵をかけたドアノブをまわす音とやかましい声を完全に無視し、庵は寝室へ向かった。寝室の奥のウォークインクローゼット…というよりは洋室まるまる一間が衣装部屋となっている…に入り、適当なインナーと適当なコーデュロイパンツと適当なセーターを身につける。
「……まったく、迷惑な輩が…」
独りごち、暖かい烏龍茶でも飲もうかとリビングへ移動した。すると、
「よっ、庵。」
バルコニーに、人影がひとつ。
「……善太?!」
鉄柵の上にしゃがみこみ、ニコニコとこちらに笑みを向けるのは、元同級生にして元同僚の北島善太。
ほぼ同時のタイミングで闖入者が二人も現れたことに庵は今度こそ呆然と立ち尽くしてしまった。善太はそんなことはお構いなしで、
「ん?玄関の向こう…声がするな。右近じゃないのか? 久しぶりだなぁ」
靴を脱いでポケットにねじ込むと勝手にリビングに上がり、そのまま庵の横をすり抜けて玄関のドアを開けに行った。そして数秒後。
「もー、いきなり入室拒否はありえないって!」
やかましい声と共に右近もリビングへ入ってきたのだった。
****************
「レンジャー解散して、退社して間もなくいなくなったと思ったら、のこのこ現れて……2人とも、何の用なんですか」
庵は不機嫌全開でソファーの背もたれに体重を預けてふんぞり返り、善太と右近を睨みつけた。が、この2人は庵の睨み攻撃への耐性はとっくに出来上がっているので平気な顔をしているのだが。
「オレは世界中旅してた。で、久しぶりに日本に行こうと思ったから、来た。」
「おー、善太すげぇ自由だな〜 いいな〜」
善太のいろんな意味でフリーダムな発言に右近は羨望のまなざしを送った。庵は、いまだ2人を睨んでいる。
「あーハイハイ。俺はね、この自由自在なヒトとは違って、れっきとした理由があるデスヨ? まずね、●゛ンダ●辞めて社員寮出てからは実家に強制送還だったわけ。ホラ、隕石の件で勝手なことして目立っちゃったからさっ だから携帯解約させられるわ山下りるの禁止だわで もー!最悪!!」
右近のじたばたしながらのコミカルな喋り方で誤魔化されそうになるが、彼の言葉は裏世界で生きる者の壮絶な事情を物語っている。だが善太も庵も、右近の『殺戮機械』としての本性をとうの昔に打ち明けられていたので今更それらに驚くことはないし、ふだんの態度が態度なだけに悲壮感が全く漂わないのだ。
「ーっで、そんなカワイソウな事情の俺が師匠に頼み込んで頼み込んで外出許可もらって山降りてー、どーしてココまで来たかといえばー、」
一呼吸置いて、右近は庵を見据え、
「今日、むっちゃんの誕生日じゃん」
庵の心臓が、ドクン、と撥ねた。
「庵ん家で誕生パーティーやるんだと踏んで、ちゃんとプレゼントまで用意してきたのにさっ むっちゃんいないしさー! つか、庵、……」
右近の目付きが、声音が、変わる。
「何が、あった?」
ひどく静かで、真剣なものに。
「お前の写真が載ってる雑誌、増えたよな。テレビのCMでも時々見かけるし。たしかに昔よりキレイになったよ。でも、今のお前は、人形みたいだ。」
美しく笑う、心の無い人形。
庵は反論することもなく、片頬を上げて笑む。肯定の代わりとして。
「なんで、そうなった? なんで、……睦実がいないんだ?」
右近の問いには容赦の欠片も無かった。そしてその隣では善太が、真剣な表情で庵の回答を待っている。
今までだったら、「貴方達には関係ない」と一蹴し、心の中を明かす真似など決してしなかっただろう。けれど、心のバリアを張る精神力は今の庵には残っていなかった。
庵は無理に笑うのをやめて息を吐き、ポツリポツリと語りはじめた。睦実がいなくなったあの日のことを。
語る声に淀みは無かった。庵は克明にあの日あったことを覚えている。その別離の直前にあった、睦実を傷つけたであろうもの達や、睦実の言葉や雰囲気や表情まで。
それらをけして都合よく捻じ曲げたり解釈したりせず、あるがままを二人に語る。
語り終わり、膝を抱え俯く庵に、右近は何と言っていいかわからなかった。右近もまた、睦実とは親しくしていたから。自分が山奥の実家にいる間に友人が失踪してしまったことへのショックは、大きい。
事が起こった時に傍にいられなかったもどかしさと察することが出来なかった後悔とをソファの背もたれにぶつける。右近の握りしめた拳がぶつかり、ソファはパシン、と音を立てた。
「大丈夫だ」
今まで黙っていた善太が口を開いた。その内容に他の2人は驚き顔を上げた。
「ムツミは、『見付けてくれるか』って訊いた。なら、また、会える」
善太のあっけらかんとした物言いに庵も右近も呆然とする。
「でも、彼は『さよなら』と……」
「庵は『見付ける』って答えたんだろ? じゃ、『庵が見付けるまでのさよなら』だ。」
な? と善太はニカッと笑った。その根拠の無い自信はどこからやってくるのだろうと庵は笑いかけられるたびに思っていた。しかし、向かいに座る右近が笑みを取り戻したのを見、庵もつられて表情を和らげた。
「だよなー!だって、いおりん『どんな姿形になっても、どこにいようと見付けてみせる』って誓ったんだもんねぇ☆」
元気を取り戻すやいなや、からかい口調の右近に腹を立て、庵は反論しようとしたが、右近はその隙を与えず、
「まずはご飯食べなサイ! 顔色が真っ白こえて真っ青! 台所借りるかんねっ」
立ち上がり、我が物顔でキッチンをあさる。
「うわっ……冷蔵庫、トマトとミネラルウォーターしか入ってないんだけど。 庵、ちゃんと喰ってんの?!」
右近の非難めいた質問に庵は記憶を手繰り寄せる。最後に何を食べたか、いつ食べたかが思い出せないどころか、このところ食事をしたかという記憶自体が曖昧で思い出せない。
「トマト…、なら」
疲れて帰宅する途中に青果店で発作的にトマトを購入して、真夜中に無心に丸かじりした、ような記憶だけが、かろうじて見つかった。
右近はそんな庵に呆れ、大きな溜息をひとつ。
「ダメじゃん!ちゃんと喰って、ちゃんと寝ろよ! 睦実探しに行くのはその後!」
鍋に水と米を入れてコンロに火を点け、トマトを猛スピードで刻み始める。
「そんな病人みたいな顔で再会しても睦実が心配するだけだかんね?!」
「ええ……そう、ですね」
庵の顔に僅かに笑顔が戻る。
それを見届け、善太もソファから立ち上がった。
「庵」
床に無造作に転がっていた小さな折りたたみの鏡を善太は拾い上げる。庵がいつも携帯していた、スチールフレームのポケットミラーだった。
「これ、つかってないのか?」
「……あまり必要じゃなくなりました」
一日に何度も鏡を開き、髪の乱れなどを細かくチェックし、時には2、3時間ほどうっとりと見とれてしまうこともあった愛用の鏡に、庵は既に何の愛着も持てなくなっていた。
「もらっていいか?」
「どうぞ」
善太は小さな鏡をカーゴパンツの右サイドのポケットへ仕舞うと、彼は何も言わずリビングを出て行ってしまった。それを不思議に思い庵が目で追う、のを右近の出したスープ皿が遮った。
「とりあえず、コレ喰っとけ☆ トマトペーストのリゾットだよっ」
ほら、と差し出されたスプーンを素直に受け取り、庵は好物のトマト味の料理をひと掬い、口に入れた。
目や鼻の奥がじんわりと熱くなるのは、きっと暖かな湯気のせいだろう、と思いながら。