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善太は走っていた。
右手には、薄いブルーのハンカチ。庵宅の寝室で見つけたそれには、家主の匂いのほかに、他の人間の匂いもする。きっとこれがムツミの匂いだろう。大気中からこれと同じ匂いを見つけることに成功した善太は、己の鼻を頼りに、屋根の上を走り、ビルとビルの間を飛び越え、ひたすらに駆ける。
「ここか」
そして辿り着いたのは、とある病院だった。
探し回っているうちに日が暮れ辺りは既に真っ暗になっていた。
しかし善太の捜索には何の支障もきたさない。彼は常人ではありえない跳躍力で建物の屋上へジャンプし、スルスルと壁伝いに移動する。そしてようやく見つけた。匂いの主のいる部屋を。
善太はバルコニーに降り立ち、部屋へと続くガラス戸を軽く叩いた。室内にただ独りいた部屋の主はそれに気付きカーテンとガラス戸を開け、善太を見て驚いたもののすぐに笑顔を作った。
「善太さん、おひさしぶりです。どうして、ここが?」
「コレの匂いで、辿ってきた。アンタのだろ?」
善太がハンカチを差し出すと、室内の人物は嬉しそうにそれを受け取った。
「ええ…そうです。ありがとうございます」
自分に笑顔を向ける人物を、善太はまじまじと見た。
「なんか……変わったな。病院にいるからか?ずっといるのか?」
「はい、春頃まで。あの…ここにいること、秘密にしてください」
「ん、わかった。……じゃ、コレ」
ポケットからスチールフレームの鏡を取り出す。
「ここから出たら、持ち主に返してくれないか?」
受け取った鏡を見て病室の主は息を呑み、そしてその小さな鏡を大切そうに両の手で包み込んだ。暗いので俯いている顔の、表情までは見えない。
「わかりました。……この鏡の持ち主さんは、元気ですか?」
「トマトばっかり食べてるなぁ」
善太の返答に、人物は顔を上げ、「そうですか」と笑った。
「ちょっと、待っててください」
言って室内に引っ込み、ほどなくして窓辺に戻ると、部屋の主は善太に先ほどの薄いブルーのハンカチを差し出した。
「これを、鏡の持ち主さんに届けてくださいませんか?」
善太はそれを快く受け取る。
「いーけど、オレ、もう来れないから、今回だけ。他にあるか?」
「いえ、十分です。……ありがとうございます」
「オレも、アリガトな。じゃ、元気でいろよ!」
言って、善太はバルコニーの柵を蹴ると、夜闇にその姿を消した。
残された人物は、スチールフレームの鏡をいつくしむように撫でた。
「ありがとう善太さん。…最高の、誕生日プレゼントです」
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「帰ったぞー」
庵宅に(やはりバルコニーから)戻った善太は、庵と右近の姿を探してリビングをドスドスと横切る。そこへ、廊下へ続くドアが開いて右近の顔が覗き、
「しー」
人差し指を立て口元にもって行き、善太に注意を促した。
「おー、すまんすまん」
「メシ少し喰ったと思ったら、いきなり倒れてさ、熟睡してる」
2人は廊下に出、寝室へ続くドアをそっと開けて室内を覗き見た。大きなベッドの中で、庵が死んだように眠っている。
善太は物音を立てないように注意しながら部屋へ入り、ベッドサイドに立った。友人の規則正しい寝息に安堵し、ポケットから薄いブルーのハンカチを出して枕元に置くと、静かに退室した。
「ナニ置いたん?」
「ムツミからの届けモン」
「会えたんか?!」
驚きのあまり大きな声を出してしまい、右近はあわてて自分の口を押さえた。
庵を起こさないよう、リビングに戻ってから会話しよう、と目で伝える。善太もそれに頷いた。
「で、睦実に会えたって? どこ??」
ソファに差し向かいで座り、右近は問い直す。
「秘密、といわれた」
「……あ〜〜〜〜、そーかい…」
右近はガクリと肩を落とし、そしてふてくされた顔をする。
「右近のプレゼントも渡せばよかったか?」
「ん? …や〜、いいわ。だって割れモンだし、皆で飲もうと思ってたから」
右近がザックから出したのは、吟醸酒『越の寒梅』の一升瓶。
「それに、……俺はいいんだよ」
笑って呟いた右近の表情に、寂しげな色がチラリと混ざったように善太には見えた。
「右近はいつもそうだな」
「ん?」
「懐っこいけど一歩引いてる。」
「だぁって、庵と睦実ラブラブだもん。あんま間に入ってジャマばっかしてっと、馬に蹴られちゃう〜」
イヤイヤ、と右近は身をくねらせる。善太は彼に「そっか」とだけ返し、大きな酒瓶を眺めた。
「その酒、開けていいか?」
「モチロン! どーんと呑みねぇ!!」
右近は食器棚からガラスのコップを二つ持ち出し。善太が開栓すると、2人は家主のあずかり知らぬところで勝手に酒盛りを始めた。
「俺、始発で帰んなきゃ。善太は?どれくらいいられる?」
右近は手酌でコップに酒を並々と注ぎながら問う。庵のことが心配なのでもう少し看ていてやりたいが、自宅謹慎中の彼にそれは出来ないのだ。
「オレは……夕方にはタイ行きの船に乗る。友達の手伝いでな。しばらく、そっちにいることになる」
「ふーん。大変だな」
肴のないまま、2人はゆっくりと酒を飲み進める。
「いや、ヒト探しもしたいしな。オレの……今でも一番愛する人」
「15の時に生き別れてそれきりなんだろ? 大丈夫なのか?」
「大丈夫。会える、気がする」
善太はコップの酒を一気に呷る。
「ムツミに会えた。だからオレの一番会いたい人にも、会える!」
旨そうに息を吐き、空のコップをテーブルにタン、と置いた。
「庵も大丈夫。いいものもらってきたから、もう大丈夫だ」
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翌朝。
目を覚ました庵は枕元に薄いブルーのハンカチが置かれているのに気付き、何かと拾い上げた。昨年の晩夏頃に睦実が忘れていって、そのままこの家で預かりっぱなしのハンカチだと、20秒かけて思い出す。
睦実のことを思い出したせいで胸の奥が再び軋み。なにげなくハンカチを開いた庵は、そのまま動きを止めた。
『オレは元気です。庵は元気ですか? トマトばかり食べていてはダメですよ 睦実』
ハンカチに油性ペンで書かれたその文字は。滲んではいるが見間違えることの無い、睦実の字だった。
「睦実……っ」
庵はハンカチをギュウと抱きしめ、ハラハラと涙を流した。
喜びの、涙を。