そこまで思い出してから、ふと、睦実は気付く。
善太から渡された鏡を、庵に返し忘れていたことに、である。
その、司令官の気遣いに嬉し涙を流した日。
その日の夜、睦実は善太から鏡を受け取ったのだ。
どうにかして、庵に会って、直接渡したい。
けれども。
彼は、自分に会ってはくれないだろう。
再会をした日の庵の態度。
あの日の彼の言動から、否が応でも察してしまう。
「司令官…オレはもう、一生、庵には会えないのかも知れない…」
ドラリンに対して、それだけを口にした睦実。
その小さな呟きは、一粒の涙とともに落とされたのだった。
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睦実が、ドラリンに電話で相談を持ちかけた次の日。
庵は、所属する事務所のスポンサーである某テレビ局の局長から、直接呼び出された。
自分の就業態度への説教か、他のモデルと差をつけるために体を売れとか言い出すのか。
と、思いきや、開口一番に局長が言ったのは、自分を労う言葉。
そして、ある人物に会ってほしい、くれぐれも機嫌を損ねないように頼む、…ということだった。
「失礼します」
局長室から直で繋がっている応接間に入ると、見慣れた人物がソファに深く腰掛けている。
「…あなただったんですか…」
そこにいたのは、笹林睦実の直属の上司、ドラリンであった。
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「本っ当に、神出鬼没ですね……」
「顔が広いと言ってくれ」
賓客がドラリンだと知った途端に庵は『礼儀正しいファッションモデル』としての仮面を即脱ぎ捨て、彼女の向かいのソファにボス、と腰を下ろした。
「……何の用です?」
2人は天敵同士。雰囲気は剣呑。発言は単刀直入にならざるを得ない。
「なぜ睦実から遠ざかる」
ドラリンの質問も簡潔なものだった。だからこそ、庵の心の奥底まで深々と刺さる。
だが庵はその傷などなかったかのように微笑む。
「仕事が忙しいからです」
「ふーん」
ドラリンの表情は『納得いかない』と語っている。
「……ご存知の通り、私はナルシストですから。人のことにそこまで構っていられません。自分が、一番大切ですから」
ドラリンの視線が突き刺さる。それでも庵は笑みを崩さず喋り続ける。
「それに……私は正直、女性が苦手です。何人もの女性に言い寄られたり強引に迫られたりしましたから。だから、睦実が女性になったと知ったとき……嫌悪感がわきました。もう、一緒に居たくないんです」
語り終わっても、ドラリンは庵から目を逸らさない。なので庵も笑顔のままドラリンを見続けた。
室内に静寂だけが流れる。
それを裂いたのは、庵の携帯電話の着信だった。
目線でドラリンの許可をもらい、上着の内ポケットから電話機を取り出し、サブディスプレイに表示された発信者の名前をチェックする。
睦実からだった。
リピートで鳴り続けるラヴェル作曲『ボレロ』の着信音と、通話ボタンを押そうとしない庵の様子からドラリンも事態を察し、
「出ろ」
ときつく言い放つ。
「必要ありません」
「出ろ!!」
問答に業を煮やし、ドラリンは庵の手から携帯電話を引ったくって勝手に通話ボタンを押すと庵に突っ返した。
もちろん庵は受け取るのを拒否した、が、
『もしもしー?おーい、いおり〜ん? みんなのアイドル右近くんからの電話ですよ〜?』
スピーカーから睦実ではないが聞き覚えのある声が流れ、庵は驚き電話機を手に取った。