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睦実はその日、意を決して庵のマンションに訪れた。
電話にも出てくれない今、彼とコンタクトを取る手段はこれしかないと思ったのだ。迷惑がられようと、嫌われようと、構わない。
とにかく、一方通行のまま後悔や悲しみの中で生活するのはもう嫌だったのだ。
エントランスのポストを確認すると、庵の苗字を見つけることが出来た。もし引っ越しまでされていたらどうしよう、と恐れていたので、胸のつかえがひとつ取れる。
睦実は息をひとつ吐くと、ポケットから庵のものであった鏡を取り出し、握りしめた。
また、会ってくれますように、とありったけの願いを込めて。
エレベーターで庵の住むフロアに降り立ち、廊下を歩く。鼓動がいやにうるさかった。
そして庵の部屋の前に辿り着く、と、そこには
「右近……くん?」
が、いた。
いや、いたと言うよりも、庵の部屋のドアに寄りかかって、地べたに腰を下ろし、寝ていた。
「こんなところでどうしたんですか? 起きて、くださいっ」
肩を揺すると、右近はゆっくりと瞼を持ち上げた。
5秒ほどぼんやりとしたまま視線をさまよわせ、小さく呟く。
「……さっさと逃げな? 寝起きの俺は殺すことに躊躇わない。」
戦場の夢でも見ていたのだろうか。笑った彼の目はひどく冷たい。が、睦実が言葉を失った1秒後に、右近は完全覚醒した。
「……んあ? むっちゃんじゃん。おはよー」
「お…はよう、ございます」
右近の目つきは睦実のよく知っている人懐こいものに戻っていた。先ほどの台詞と表情は無意識のものだったのだろう。友人が普段の調子に戻ったのを安堵する一方で、睦実は右近が身を置いている世界の壮絶さを改めて心に刻む。
「つーかさ、すっげぇ久しぶり!元気してた? 俺はさっき『仕事』終わったばっかでー、このまますぐ実家帰るのもつまんなくてさ、帰り途中に庵のマンションあるから、からかおーと思って寄ってみたら庵いなくてさっ ちょい疲れてたからしばらく座って待ってよーと思ってたらいつの間にか寝ちゃって。で、目ェ覚ましたらむっちゃんがいたワケ! うわっ もースゴイ偶然!俺ってラッキー!!」
いらんことまで喋りまくる右近のマシンガントークぶりは4ヶ月前と変わっていない。睦実はそれが嬉しくてクスクスと笑ってしまった。
「で、さー。むっちゃんはなんでここに? あ、庵に会うためか。でも庵いないよっ?」
しかし右近の質問に睦実の笑顔はすぐに消える。
「いえ……居ても、会ってくれるかわかりませんし」
睦実の悲しげな態度をすぐに察し、右近も表情を引き締める。
「なにが、あったん? つか、今までドコ行ってた?」
この声色はけして睦実を責めようとするものではなく、心配と労わりの感情から来るものだったから。
だから睦実は深呼吸を一回し、そして語り始めた。これまでのことを。
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マンションの廊下で立ち話するのも近隣住民に迷惑だろうと考え、2人はマンションの近くの広場に移動した。この辺りは新興住宅地なので綺麗に整備された緑地とベンチがそこかしこにある。
そこで、睦実は語った。今まであったこと、自分が決めたこと、を。
両性具有や性転換についての説明は簡潔にわかりやすく語ることが出来た。こうして、何人もの人間に話すうちに説明はどんどん上手くなり、自分も「性転換をした人間」として順応してゆくのだろうか、と睦実は頭の片隅で思う。
右近は自販機で買ったミルクティーをベンチに座る睦実に手渡すと、自分もレモンスカッシュを片手にその隣へ腰掛けた。睦実の鼻腔が火薬と血の臭いを感じ取る。
「あー臭うよね? 体は洗ったんだけどなぁ。服に染み付いてんのかね。あとで服買お。 で、庵のヤツそんなこと言ったんか」
「……ええ」
「馬鹿じゃねぇのアイツ」
ポツリとこぼした右近の言葉に、睦実の心臓は大きく跳ねる。
「馬鹿じゃありません」
「馬鹿だよ。睦実をこんなに傷つけてるってコト、わかってない」
「庵を悪く言うのはやめてくださいっ!!」
予想外に大きな声が出、予想外に大きな水滴が目から溢れ。睦実は自分のことながら驚きうろたえるしかなかった。
「あ……」
涙が、止まらない。
拭っても拭っても、あふれ出してくる。それはきっと、庵が自分の前から去っていったあの日から、ずっと体内に隠し通してきた涙なのだろう。
「むっちゃん」
睦実の体を、右近が優しく抱きしめた。火薬と、血の臭い。そして人間の暖かさ。
「……ごめんね?」
耳元で囁かれる、右近の悲しげな声。
睦実は何も言えぬままひたすら首を横に振った。