【新たな選択肢】

「…どうしよう」

右近は、彼の実家から直接、仕事場である市ケ谷まで送ってくれた。

が、自分が職場復帰する──もとい、ホンゲダバーが活動を再開するまでは、まだ、時間があるのだ。

それを忘れていたことに気付いた睦実は、やっと、自分が疲れていることを認識した。

「疲れてるのかな…」

そう独りごちて、睦実は駅から離れるために、目的もなく歩き始める。
駅周辺は人が多いので、そこから脱け出したかったのだ。

道を歩いていると、自分と同じ省の職員であろう人々が、同じ方向に向かっていた。

無意識の内に職場に向かうという、いつの間にか身についた習慣に、苦笑する。
睦実は即座に、人の流れに対して逆行した。

と、

「睦実?」

声が、かけられる。
男性の声。自分の記憶が正しければ。

彼は、かつて自分を必要としてくれて。最高の理解者になってくれて。そして自分に、人生のパートナーになってほしい、と言ってくれた人。

声のする方を振り向くと、ブラウンのスーツを着た長身の男性が立っている。
彼は走ったのだろうか、髪は少し乱れ、肩で息をしていた。

「雅哉さん…」

睦実を呼び、引き止めたのは柳崎雅哉。

かつて睦実が女装任務に就いた時、睦実を大層、気に入って惚れ込んだ青年実業家だ。
彼は自分が男だと知っていて、人生のパートナーになってほしい、一生側にいてくれ、と告げてきた。

そんな彼が、何故ここにいるのだろう。確か、ニューヨークに行っている筈ではなかったか?

「どうして、ここに…?」

「昨夜、ニューヨークから帰ってきたんですよ。今日は、別の取引き先の客の職場に車で向かう途中、あなたを見付けて…。
いや、それよりも私こそ訊きたい! なぜ女性の格好をしているんですか? これから、なにか任務でも…?」

柳崎の問いに、睦実は微かに笑って答える。

「話が長くなりますから、先方との取引きが終わってから、またお会いしましょう? 雅哉さんさえよろしければ、ですが」

「もちろん構いませんよ! けれど…睦実、大丈夫ですか? かなり疲れているようですが…」

自分も忙しくて疲れているだろうに、気遣ってくれる彼の優しさが嬉しかった。

右近も、雅哉も。
優しい人々に廻りあえた自分の境遇に感謝するとともに、彼らのことを、より素直に誇りに思える自分が少し、不思議だった。

「大丈夫ですよ、ありがとう雅哉さん。…駅近くのスターバックスコーヒーでお待ちしてます。仕事が一段落したら、いらして頂けますか?」

静かに告げた睦実を、雅哉は眩しげに目を細めて微笑み、一言。

「分かりました。睦実…怒ってほしくはないのですが…、綺麗に、なりましたね。本物の女性のように…艶やかになった」

睦実が、その言葉に驚き呆けている間に雅哉は、

「仕事、すぐに終わらせて来ますから!」

と言いつつ、車を待たせているであろう道の反対側に、走り去っていってしまった。

「…雅哉さん…」

彼は自分と同じ、嘘を見抜く力を持っている。
だからこそ、自分の変化に気が付き、あのようなことを言ったのだろう。

睦実の心は、大きく揺れた。

かつて自分を必要とし、側にいてくれと願った彼。必ず幸せにすると、誓ってくれた彼。

もし、彼が自分への想いをそのまま持ってくれているとしたら?
そして、今の自分を受け入れ、認めてくれるとしたら?

庵が、自分が女性になったことに対してマイナスの感情を持ったことは、確かだ。
自分を拒絶する人より、受け入れてくれる人の側にいたい、と。
睦実は、漠然と考えてしまったのだった。

    ****************

雅哉は宣言どおり猛スピードで仕事を終えて来たらしく、ほんの小一時間で睦実の待つコーヒーチェーン店にやってきた。

そして雅哉は開口一番、待たせたこととニューヨークから帰ったと連絡しなかったことを謝る。
そんな彼に睦実は苦笑し、変わっていない、と返す。
すると雅哉はホッとしたような笑みを向け、睦実の女装──だと彼は思っている──の理由を問うて来た。

平日朝なので、周りに人はいない。

雅哉に、睦実はゆっくりと語り出す。
両性具有であったこと、命を産み出す女性に憧れていたこと。様々なリスクを考えても、どうしても女の性を選びたかったこと…。

睦実の話を聞き終わるなり、雅哉は深い溜め息を吐いた。

「…そう、だったんですか…」

彼はうつ向き、しばし何事かを考えている。
が、すぐに顔を上げた彼の真剣な眼差しが、睦実の瞳をヒタと捉えた。

「誰にも、なにも相談せずに…あなたは、その選択をしたんですか?」

その質問は、責めるとか、そういうものではない。

その時、力になれなかった後悔と。選んだ方向を、もし睦実が後悔していたらどうしよう、といったことを心配する問い。
彼の不安げに揺れる瞳を見て、睦実は嬉し涙を溢した。

「む、睦実?! どうしたんですか?!」

睦実の涙にうろたえ、慌ててハンカチを差し出す。そして思い出したように雅哉は周囲を見回し、人がいないことに安堵のため息を睦実に聞こえないように吐いた。

「あ…、その、雅哉さんが優しくて…嬉しくて。だから…」

そこまで言った睦実は、雅哉から渡されたハンカチで涙を拭う。
ほのかに香る、香水の匂い。柑橘系の香りだからなのかは分からないが、とても落ち着いた。

「ごめんなさい、いきなり泣いたりして。なんだか…最近、やけに涙脆くなってしまって…」

最近というのは、自分の過去の傷痕と向き合い、乗り越える決心をした時だ。

雅哉は、諸事情を知らなくても。
自分が語らずとも。
ある程度のことは、察してくれる。
わざわざ尋ねるようなことはしないので、ありがたかった。

「相談は…しましたよ? 司令官に」

雅哉は、自分がどういった組織に属し、上官がどういった人物であるか知っている。

だからこそ、睦実は躊躇することなく『司令官』と言ったのだ。

「ああ、ヒルダさん、ですか?」

「はい」

ドラリンは通常は、女性向けファッションのデザイン事務所の社長ということになっている。
その、彼女の通称は『ヒルダ』なのだ。

それ故、雅哉はドラリンのことを『ヒルダ』と呼んでいる。

「彼女は…頼り甲斐がありますよね」

「はい。オレのよき理解者です」

睦実の微笑みを見て雅哉は、胸を撫でおろした。
道で歩く睦実を見た時、彼は、ひどく疲弊した顔つきだったから。
なにか嫌なことでもあったのかも知れないと、密かに心配していたのだ。

「理解者といえば…庵さんは何と? そういえば、彼はモデルになったんですよね?」

普段であったら睦実は、二言目には親友である倉石庵の話をする。

だから雅哉は彼の名前を出した。
彼が誰よりも睦実を信じ、気にかけ、大切にしていることが、睦実の話を聞いていれば分かったから。
だが、彼の名を出した途端、睦実の表情が翳る。

「睦実…?」

「庵は…オレのこと…嫌いになった、みたいです」

睦実の発言に、雅哉は言葉を失った。
倉石庵という人間とは、少しだけ話をしたことがある。
睦実と、かつて喫茶店で話をしていた時に、そこの近辺に用があるとのことで合流したのだ。

その時の印象は、『美形だが、いけ好かないヤツ』であった。
人当たりはとても良いのだが、睦実と居る自分に対して敵対心が見え見えなのだ。

嘘や上っ面な部分を見抜く自分にとって彼は、天敵の部類に入る。
直感で、そう思った。

「『嫌いになった』…。…そう思う理由、よろしければ話してくださいませんか…?」

雅哉は努めて平静に、優しく問いかけた。

 

    

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