再会の日からあったことを、感情を捨てて淡々と話す睦実は、無表情であった。が、表面に出てはいないだけで、その心の内は傷付き、血を流している。
それは、自分でなくとも容易に想像できるはずだ。

当然だろう、睦実は倉石庵という人物に対し、絶大な信頼を寄せていた。そんな彼に拒絶の態度を取られ、睦実の精神は追い詰められている。
睦実が表情を出さずに話すということは、どういうことであるのか。
彼の──否、彼女は深い悲しみを持っているが、それを必死で隠しているということに他ならない。
睦実を、守りたい。
この世の全ての悲しみ、理不尽、悪意から──。

「睦実」

自分の想いを、睦実が、どう思うかは分からない。けれど、雅哉は決心する。
睦実を、彼女の心を守るために、なにができるか。
だから彼は、真摯な眼差しで睦実を見つめ、堅く握り締められた手を自分のそれで包み込む。
驚きと戸惑いに染まる睦実の目が、雅哉を捉えた。

「睦実。私と…一緒に、なってほしい。結婚、してください」

──雅哉さんは今、なんと言ったのだろうか?──

睦実の思考は一旦停止する。そして次の瞬間、全身の血液が集中したかのように、顔が真っ赤に染まった。

「えっ? あ、あの、柳崎さん…今、な、な、なんて?」

睦実は聞き返しながら、心を静めようと努力する。が、動悸は治まらないわ頭に昇った血は降りてきてくれないわで、睦実の動揺はますます大きくなっていくばかりだ。

「結婚してください、と言いました」

そんな睦実に雅哉は、先ほどの言葉を告げる。

「けっ…」

しかと聞いてしまった、彼の願い。睦実の類稀なる優秀な頭脳は、完全にフリーズしてしまった。

「なぜ驚くんですか? あなたは先ほど、『命を育みたい』と仰いました。まぁ、婚姻せずとも、それを叶えることは可能ですが…全く考えたことが無かったわけでは、ないでしょう?」

雅哉の問いはもっともで、睦実には反論の仕様がない。だが、自分の意識が完全に変わる前に、プロポーズされる身にもなってほしい。
睦実は、そう思わずにはいられなかった。

「だっ、だって! いきなり、そんなことを言われても…」

「いきなり、ですか?」

「そうですよ! そんな、突拍子もないこと…」

「私は以前、あなたに同じようなことを言いましたが…」

雅哉の次に告げられる言葉を予測し、睦実は身構える。

「今でも、その時と同じ気持ちを持っていると、少しでも思いませんでしたか?」

雅哉の口調は、追い詰めたり責めさいなむような、それではなく。ただ、純粋な問いかけであった。

「そ、れは…考えなかったと言ったら、嘘になりますけど…」

睦実の答えに、雅哉は満足そうな笑みを向ける。

「でしょう? 全然、突拍子なくないですよね」

にっこりと、有無を言わさぬ笑顔で雅哉が断定する。睦実は、小さく頷いた。

「私は…あなたを幸せにできる、必ず幸せにする、と言いました。けれど、あなたは『誰かに幸せにしてもらうのではなくて、誰かと幸せになる努力をしたい』…と、私に話しましたよね」

「はい…言いました」

それは、確かな自分の価値観だ。今でも、変わることはない。

「私は『誰か』というのは、まだ見ぬ伴侶だと思いました。だから、今。再びあなたに告げたい。私のパートナーになって、人生を共に歩んでください」

「雅哉、さん…」

睦実の心は、雅哉の真剣な瞳に揺り動かされる。先ほど脳裏をよぎった庵の顔は、もう消えていた。
女性になったら、庵と一生一緒に居られるのではないか、と思った過去の自分は、どこかに居なくなってしまう。

「雅哉さん…もう少し、時間をいただけますか…?」

睦実の言葉に、拒絶の意味ではなく肯定の響きを感じとった雅哉は、微笑みながら、首を縦に振った。

****************

「…ということがあったんです。…どうしたら、良いんでしょうか…?」

睦実は、その日の夜、上官であるドラリンに今日あったことを報告し、相談する。
ドラリンは、女の性を選びたい、と話した睦実と三日三晩の間、話をした。
それからというものの、睦実はドラリンを良き相談相手としている。
ドラリンも睦実を弟妹のように我が子のように可愛がっているので、頼られるのが嬉しいらしい。

『睦実は、どうしたい?』

ドラリンの問いに、睦実はしばらく無言で居たが、ポツリと溢した。

「…正直、迷っていますが…雅哉さんのプロポーズを受けたい気持ちも、あります」

睦実の言葉にドラリンは、素早く返す。

『気持ち「も」? ある…?』

「…雅哉さんは、オレの全てを理解してくれています。それは、よく分かっているのですが…怖くも、あるんです」

睦実にとって、なにが恐ろしいのか。ドラリンには、分かりすぎるほどに分かっていた。
過去の傷痕。
もし結婚して夫婦の営みをする時に、拒否反応が出たらどうするのか。

だから昔、なにがあったのか言わなければいけない。
だが、それは怖い。
嫌悪感を示されたら、今度こそ自分は精神崩壊してしまう。

『話してみなさい』

「…え…?」

『柳崎に、話してみなさい。そして、彼がお前の過去を受け止められなければ、そこまでの奴だった、というだけの話だよ』

「でも…」

『どうした? お前らしくない。白黒はっきり付けるのは、好きだろう?』

ドラリンの問いに、睦実は沈黙するしかなかった。
見透かされている。自分が何故、柳崎のプロポーズに対して答えをすぐに出せないか。迷いの、本当の理由が。

「…司令は、分かってるんですよね? オレが、なぜ迷っているか」

『…さぁな。だが、これだけは言っておくよ。庵は、女になったお前に対して、嫌悪感を持っていると言っていたぞ。嘘か本当かは…知らんがな』

「…庵が…そんなこと、言っていた、んですか…?」

真実を語ることは、睦実を傷付けるに違いない。だが、睦実に最後の一歩を踏み出させるため、あえてドラリンは鬼の面をかぶった。

『ああ。…私の言っていることが嘘か本当か、お前なら、分かるだろう?』

睦実の頬を、一粒の雫が滑り落ちる。その雫はいつしか、川となった。
睦実は、ただ、声もなく涙を流し続ける。そんな泣き方をしたのは、生まれて始めてだった。

 

柳崎の、次の休みの日。
睦実は今まで自分にあったこと、全てを語る。

柳崎は、その事実に驚き、加害者に怒り、そんな目に遭った睦実の力に、その時なれなかったことを悲しんだ。

けれど彼は睦実に嫌悪感を抱くようなことは決してせず。
むしろ、必ずそういった輩から守る、と約束してくれた。

睦実は、そんな雅哉に対し心からの笑みを向け。
彼のプロポーズを、了承したのであった。

    ****************

―――短い恋だった。

右近は市ヶ谷駅まで睦実を送って、そして別れた後も10秒ほどその場に立ち尽くしていた。
睦実の背中が遠ざかるのをぼんやりと眺めているその間に、ふと、悟ったのだ。

―――自分は、睦実に恋をした。

数ヶ月ぶりに会った友人は、なんと女性になっていて。
しかも傷ついていて。
元気づけたいと思ったのは、友人として当然のことだったけど。
女性になった睦実は改めて見るとひどく美しくて。
睦実が男だった時代から彼の性格は好ましく思っていたので、半日を共に過ごすうちに自分は睦実という女性にどんどん惹かれていった。
そして、自分の未来を確認するための家族と睦実の前でのあの試み。

両方とも敗北。

そして。

去りゆく彼女の背を眺め、鼻の奥がつんと痛むのを『切なさ』と悟り。
彼女の笑顔を思い出し、胸の中心がじんわり温まるのを『愛しさ』と悟り。
彼女の幸福を強く願い、彼女の隣にいるべきは自分ではないと悟った時の、この胸の痛みは、おそらく『恋』という奴なのだろう。

―――…たった一日の、本当に短い恋だった。

右近は踵を返した。視界から睦実が消える。

―――でも、良かった。

心から、そう思えた。後悔など何一つとしてしていない。
人を愛することが出来た幸福感だけが、彼の心に残り、きらめいている。

駅構内に掛けられた時計を見遣り、右近は溜息をついた。
次の『仕事』への出発時刻が45分後に迫っている。
内容は監視兼暗殺だったか。おそらく40日間は天井裏や通気ダクトの薄暗闇の中を這い回ることになるだろう。

一昨日までの自分だったら、ぶちぶち文句を垂れつつ任務についただろう。でも、昨日一日のオフの間に『恋』という素晴らしい充電を出来たのだから。

―――今の自分は、無敵だ。

右近は深呼吸をすると人目をはばからず走り出した。
太陽の光を、今のうちに存分に浴びて。闇の中でしんどくなったら、今日のことを思い出して。
そうすれば、人の心を忘れずにいられる。
そして仕事が終わったら、また絶対に、皆に、睦実に、会いに行く!

―――それまでに庵が勇気を出していれば良いな。

ちらと思った。
何があったのかは知らないけれど大体予想がつく。大方、睦実の変化に戸惑ってしまい、その戸惑いを隠すために睦実から遠ざかったか。ゴシップに睦実を巻き込むまいとした気遣いか。はたまたその両方か。

どっちにしても、睦実をあんな状態のまま放置しておかれては困る。

―――だって、睦実の横にいるべきなのは、誰でもない、庵だけなんだよ。

仕事が終わったら、また真っ先に庵のマンションに行こうか、と企てつつ走る右近は、知らなかった。
睦実の心の中から庵の存在が褪せ、彼女の幸福の形が、今まさに変貌しようとしているのを。

 

    

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