【抜け落ちる棘】
ボストンバッグをドスンと床に放り、続いて己の身もソファの上に放り出して、ようやく一息ついて。
1ヵ月半ぶりの自宅はやはり落ち着く、と庵はぼんやり思った。
ドラリンが自分を訪ねてきたあの日。事務所に戻るなりマネージャーに捕まって、そのままイギリスへ強制連行。
名目は休みなしに働いていた自分への事務所からのご褒美休暇ということだったが、レギュラーのファッション雑誌の撮影やら旅行雑誌のゲスト出演やら2冊目の写真集用の撮影やら、気候が安定していたこともあってこの機会に撮ってしまおうということで実質休めたのは滞在期間の3分の1程度。
しかも休みの日は事務所の社長に色々な場所に連れまわされて沢山の人間と引き合わされて……社長はどうやら自分を気に入ってくれているようでコネクションを作ってくれている、のは助かるが、正直全く休めた気がしないイギリス滞在だった。
そしてもう一つ気が休まらなかった理由は、右近からの電話。
睦実とデートする、とか言ってたか。
何故そんなことになったのか。
確かに2人は仲が良い……いや、右近が一方的に馴れ馴れしくして睦実は優しいから付き合っているだけだ、が。
『じゃ、むっちゃんのハジメテ、もらっちゃおっかな〜』
右近のその言葉を思い出し、庵は嘔吐感を覚えた。
トイレに駆け込み便器を前に咳き込む。胃液が喉を焼きながら逆流し汚い音を立てて水面へ落ちる。
庵には潔癖症の気がある。他者にただ触られることすら嫌がる彼は、特に、男女の営みに関してはことさら過敏に反応し本能的に拒絶してしまう。
それは、過去に数回、彼に思いを寄せる女性たちが彼のあまりの気のなさに業を煮やし、強引に行為を迫ってきたことと、幼い頃から両親の情事を何度も目撃してしまった為だろう。
特に後者は庵の心に深いトラウマとなって刻み込まれている。両親が彼との親子関係を放棄し、夫婦だけの生活を楽しんでいた理由は、その例の行為に耽りたかったからだろうと庵は想像するし、その予想は大体的中していることは両親の親密さを見ていればなんとなく判る。
なので庵にとってそういった行為は自分がこの世に存在するためには必要であったと、解っていても嫌悪したし忌むべき対象であるし。それが庵の恋愛恐怖症の根幹ともなっているのだが。
そういった行為を、右近が睦実と行った。……そう、思っただけでも再び吐きそうになる。喉や口内が胃酸によって焼け爛れ、ひりひりした。
あのような汚らわしい行為を睦実がさせられただなんて、考えたくもない。万が一そのようなことがあれば、右近を、いや睦実を穢した輩なら誰でも、この手で叩きのめす……
庵が拳を固くし、そう思ったときだった。
インターホンと、
「よ〜っす! あーそーびーにー、きったよ〜っ」
聞き覚えのある、今しがた脳内裁判にかけていた被告張本人の声。
庵はゆっくりと立ち上がり、洗面所で胃液まみれの口をゆすいでから玄関へ向かった。
「よっ」
扉の向こうから現れた愛想の良い右近の顔を見るなり庵は乱暴に彼の胸倉を掴み室内に引き寄せた。
「ちょ……何? なんのプレイ??」
驚く右近の声に応えず、そのまま彼を引っ張って強制的に歩かせ廊下を抜けリビングに入るとソファセットとダイニングテーブルの間の広い空間でようやく彼を解放した。
「睦実とのデートは楽しかったですか?」
喉が焼けたせいで庵の声は普段よりも低く掠れていた。それが嘔吐のせいとは知らない右近は、ドスの聞いた声に少し身構える、が、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「うん。すっげぇ楽しかった」
「そう、ですか」
「睦実が今まで見せたことなかった表情みせてくれたしさ〜、顔赤くして、息なんか切らしちゃってさっ」
右近は、嘘はついていない。ゲームセンターで一喜一憂する睦実の表情は今まで見たことのない類のものだった。ただ、それをぼやかして言っているだけだが、右近のカマかけに庵の感情は波立つ。
「な、ん……て、」
「睦実って、ああいうときあんなカオするんだな。庵は知ってた? もぉ可愛くってさー、恥らう表情なんか……」
右近の言葉はそこで切られた。庵の上段蹴りによって。
「あっ…ぶねぇな!!」
紙一重でそれを避けた右近へ間髪いれずに後ろ回し蹴りが襲い掛かる。右近はそれを左腕ではじいてから両腕で庵の蹴り足を絡めとり、逆関節方向へ締め上げた。
庵が痛みに顔をゆがめるのを確認してから、右近は彼の足を開放すると、先ほどの出迎えでされたように庵の胸倉を乱暴に掴む。
その端正な顔に目一杯顔を近づけ、右近は怒鳴った。
「そんなに大切にしたいなら、なんで近くで守ってやらないんだ!!」
ビリビリ、と鼓膜が破れそうなほどに振動するのを庵は感じた。無表情を保っていた顔が歪みそうになる。
「……睦実は、人の視線がダメなんです… 万が一マスコミの目になんて晒されたら……っ」
「そうやってお前が遠ざかることで睦実がどれだけ傷ついてるかわかんねぇのか?! いいか、睦実はお前のために女になったんだ! 同じスキャンダルになるにしても男同士より男女の方が何倍もマシだからって睦実は言ってたんだよ!!」
庵の襟元を絞める右近の手に力がこもる。庵は次第に息苦しくなるのを感じていた。
「性転換がどんなに怖くて勇気いるか、考えたことあるか? 睦実の気持ち、考えたことあるか? お前は睦実の決意や優しさ全部踏みにじってんだよ!!!」
右近は声も、表情も、激怒している。でも、怒っているのに泣いているようだと、庵は酸欠状態の中で他人事のようにぼんやりと考えていた。
「そんなにマスコミに見られるのが嫌ならさぁ…」
烈火のごとく感情を爆発させていた右近の気勢が、変わる。すう、と急激に温度が下がり、まるで昏い水の底から静かに湧き上がるような冷たい情念。
それこそが普段の道化の面の下に隠された、右近の本当の表情なのだろう。庵は本能的に恐怖した。
「顔、変えてやるよ」
右近は恐怖で動けなくなった庵をソファの上に押し倒した。
左の手で庵の前髪と額を無造作に掴んで頭部を押さえ込むように固定し、そして右の手を開き、まるで包丁を研ぐように5本の爪に舌を滑らせる。
「一生消えなくて、メイクでも隠せない傷つくりゃあ、モデル辞めざるを得ないよな。そうすりゃお前はマスコミから追われなくなる。睦実と一緒に地味に平和に暮らせるよ?」
そして笑んだ右近は、ひどく残酷で、ぞっとするほど優しい顔をしていた。
人間ではない。
庵は総毛立った。こんなにも人を恐怖させることの出来る存在が、この世にあるとは思いもしなかった。
過去に彼が己の正体を明かした時以上の、恐怖。
今になってようやく、身をもって思い知った。彼を形容するにふさわしい言葉は……『バケモノ』。
「大丈夫。俺は人体を知り尽くしてるから余分な痛みは感じさせない。でも悲鳴聞かれるとまずいから俺の手咬んでてよ」
右近の左手が頭からはずされ、庵の口内にねじ込まれた。それは、顔を裂かれる激痛を外へ逃がせるようにとの配慮。
「じゃあ、いくよ?」
優しく冷たく強く残酷な右近の視線が庵を射抜いた。
庵の双眸は恐怖一色に染まり、逸らすことも出来ず見開かれている。
右近の爪が、庵の左頬を切り裂く―――
「なにやってんの二人とも??!」
突然の声に右近の手が止まった。
驚いて身を起こすと、同じく驚いた表情の明美と目が合う。そして次の瞬間には背後から回り込んでいた連賀によって、右近は動きを封じられてしまった。
「倉石、血が!!」
右近の膝の下から助け出された庵は、明美の悲鳴を呆然と聞きながらようやく動くようになった左手でチクチク痛む頬をなぞった。確かに血が少々出ているが、左頬を5ミリほど切られただけだ。傷口も、1ミリ程度とかなり浅い。
しかし右近は本気で自分の顔を切り裂こうとしていた。
再び甦った恐怖感と、危機を脱した安堵感に、庵は腰を抜かしその場にへたり込んでしまった。