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明美は台所を借りて紅茶を淹れると、ソファの上でうなだれる右近の前に置いた。
庵は寝室で連賀に怪我の手当てをしてもらっている。
「なんであんなこと……しようとしたの?」
明美は右近の隣に座り、彼を見上げた。目は、合わない。
右近は自分の手を、あの時庵に咬ませた左手をじっと見つめていた。
友人であり恋敵である庵を組み敷いて。
任務に際して鋭く研いでいたナイフ代わりの爪を構え、顔の筋肉組織を脳内で反芻していたあの瞬間。
このまま手を噛み砕かれてもいい、と、右近は思った。
庵の目は見開かれ凍り付いている。
きっと庵は自分に恐怖している。自分は恐ろしいことをしている『バケモノ』なのだから。
庵の顔をめちゃめちゃにすれば、睦実は悲しむだろう。それでも自分は愛する睦実のためにこんなことしか出来ないのだ。
せめてこの左手が粉々になることで少しでも罪が贖えればいい、と思いながら。
睦実の幸せな未来を想いながら。
……そして振りかぶった爪は、止められ。今になって安堵している自分が、いるのだ。
右手に暖かなものが触れ、右近は思考を引き戻した。明美が自分の手を握り、泣きそうな顔でじっと見つめている。
「帯刀」
明美は右近が自分に視線を合わせたのを確認してからゆっくりと口を開いた。
「帯刀が倉石を怪我させたら、きっと、睦実さん、泣いてたよ」
右近は力なく頷いた。
「倉石だけじゃなくて、帯刀のためにも、泣くんだよ」
もう一度、頷く。
「なにがあったかは、わからない、けど、帯刀の心も未来も、メチャクチャになるところだったんだよ。そんなことがあっていいはず、ないんだよ……」
明美の目は赤く、潤んでいた。心から心配している顔だった。
自分を純粋に心配し、叱ってくれる人が横にいてくれることが嬉しくて、でも自分には勿体無さすぎて眩しくて。
右近は考えるよりも先に、明美に抱きついていた。
明美も、右近の抱擁を拒まず、まるで母親のように優しく彼の背中をさする。
「……へへっ」
くすぐったそうに、右近が笑う。
「明美にハグするのヒサビサ〜 気〜持ちいい〜 もー、ずっとこーしてたい〜……」
冗談めかした甘ったれ声を出した右近、を、襟首を掴んで明美から引き剥がしたのは連賀だった。
「連賀、倉石は?」
問う明美に連賀が答える前に、庵もリビングに姿を現し、右近の向かいに座った。
頬に絆創膏を貼った彼は、いつも以上に真剣な、何かを決意した表情をしており、右近も明美も思わず身構えてしまう。
「白状、します」
庵の小さな、しかしはっきりとした声に室内の空気が張り詰める。他の3人は身を固くして彼の言葉の続きを待った。
「スキャンダルから睦実を守りたい気持ちも嘘ではありません、けど…… 怖いんです」
俯いて語る庵の表情は見えない。
「私は…両親から放置されて、執事と家庭教師、メイドたちに育てられたようなものでした。」
庵は言葉を切り、息をついた。
「家庭の愛情というやつを知らずに育って…恋愛も…男女の機微についても全くの無知です。そんな私が」
パタ、パタ、と水滴がカーペットに落ちる音が3人の耳には届いていた。しかし彼らは気づかないふりをする。
「そんな私が、睦実を幸せに出来るとは、思えないんです……っ」
言い終わり、顔を手で覆った庵に、
「ば、かやろお…っ」
右近は叱責の言葉を投げかけ、手を上げようとした、その前に。
庵の隣に座っていた連賀が、おもむろに庵の頭をぺしん、と叩いた。
「?!」
右近にならわかるが、無口無主張無抵抗主義の連賀に叩かれるとは夢にも思わず、庵は驚きすぎてポカンと連賀の顔を見返すしかなかった。
叩いた連賀本人は普段と全く変わらない無表情だった。が、今度は彼を代弁するかのように明美が口を開く。
「その話は僕らにするものじゃない。睦実さんに真っ先に話すべきことじゃないかな?」
「え…… いえ、そんな、こと」
恥ずかしくて言えない、と庵は思った。
その思考を見透かしたかのように明美は言葉を続ける。
「話したら睦実さんは倉石を見損なう?そんな人じゃないよね? だったら、信じて。」
庵は言葉を失った。
信じる。
自分は睦実を信じていた、はずだったのに。
『弱いところも、格好悪いところも、見せていいんですよ?』
それは、自分が睦実に、他人に心を開くことが出来た初めての日に、睦実が言ってくれた台詞だった。
その言葉が嬉しくて。
ずっと、覚えていたのに。それなのに。
恥ずかしさが前に出てしまって、勇気を出せないでいた。
―――なんて自分は阿呆なんだ。それこそが、一番恥ずかしいことじゃないか。
庵は恥ずかしくて、悔しくて、唇を噛み俯いた。
「僕と連賀も、お互いダメなトコだらけだけど、むしろダメな部分出してく方が上手くいくって、思うんだ。……あ、えーと、男と女の人の場合は、どうかわかんないけど」
ゴメン参考にならなくて、と肩をすぼめる明美に庵はどうにか笑顔を作った。
「いえ……ありがとうございます」
明美も笑い返す。その肩を連賀が軽くつつき、1通の白い封筒をジャケットから出して見せた。
その封筒を見て何事か思い出したのか、明美もたちどころに表情を変える。
「そ、そうだった! そんなこと言ってる場合じゃなかったよ!! これ、今日ウチに届いたんだけど……」
慌てる明美と、連賀が差し出した封筒を見比べ、庵も、そして右近も首をかしげた。
「どうしたんです?」
「どしたん?」
そして庵は封の既に切ってある封筒から中身を取り出した。それは、白い厚手の紙。紺と金の縁取りが上品な……
「睦実さん、結婚しちゃうよ…!」
……柳崎雅哉と笹林睦実の結婚式の招待状、だった。