【嵐の兆し】
「ふぅ…。疲れたけど、すごく楽しい一日でしたね」
「え、ええ、そうですね…」
風呂に入り、濡れた髪を拭う睦実に、庵は気のない返答をした。
白粉と紅を落とした睦実は、いつもの状態に戻っただけなのだが、風呂上がりの睦実は、正直目のやり場に困る。
朱の差した頬。血色のよくなった唇や肌。庵の目には、それらは非常に毒だった。
「…庵、酔ったんですか?」
先程まで庵は善太と呑み比べをしていた。結果は庵の圧勝ではあったが、歯切れの悪くなった彼には、普段の凛々しさの欠片も見当たらない。
圧勝と見せかけて、実はギリギリで勝ちをもぎ取ったのかも知れない。
「いえ、酔ってはいませんよ?」
嘘は、吐いていない。
自分の態度がいつもと違うのは。親友である人が女性になり妻となったことに対する心の耐性が、全く出来ていないだけだ。
同じ男性であった時には全く意識していなかったのに、性別が変化した途端に美しさと艶やかさが際立って見えてしまうのは、ひとえに自分の意識の問題なのだろう。
「ひ、一風呂浴びてきます!」
「えっ?! お酒を呑んだ後にお風呂に入るのは危険なんじゃ…」
「酔ってませんから平気です!」
背後からかけられた睦実の声に振り返ることもせずに、庵は足早に部屋から出て行ってしまった。
「…変な庵…」
呟くなり睦実は、布団に潜り込んだ。
****************
そもそも、この婚姻は庵の両親に政略結婚を勧められたときのための対策な訳で。そんな、意識をしなくてもいいのかも知れない。けれど庵には、どうしてもダメだった。
いくら、元男性でも。
親友でも。
今、睦実は紛うことなき女性なのだ。
彼──否、彼女──は、自分が女性になっていることを、あまり自覚していないようだから、余計に困る。
自分は、女性に対する苦手意識がある。睦実もそれを知ってはいるものの、性別が変化したという意識が希薄…むしろ、ない。
庵は大きく溜め息を吐くと脱いだ袴をざっと畳み、脱衣所の風呂場に足を踏み入れた。
数歩歩いた庵は、湯気の中に人影を見、足を止める。入口付近では気付かなかったが先客が居たらしい。
「あ、す、すみません。えと、どちら様でしょうか?」
普段であったら人の有無を確認するのに、それをしなかったという事は、よほどテンパっていたのか。しかも、先客が右近の母やドラリンであったら非常にマズい。既婚者で子持ちの中年女性と言えど、いくら痴女と言えど、女であることに変わりはないのだ。
0.5秒の間で様々なことを考え戦慄する庵に、人影が声をかけた。
「倉石…『さん』、か」
一応『さん』付けする明仁の律儀さに、庵は苦笑しながら言葉を返す。彼の心境として自分は、娘をさらっていった婿なのだ。本来ならば『倉石』と呼び捨てにしたいところであろう。
実際、柳崎と睦実との結婚式場で彼は自分を呼び捨てにしていた。
「『倉石』でいいですよ、名取さん」
「いや、そういうケジメは、やはりつけたいからな」
彼の声は、いつものように穏やかで優しい。が、今はどことなく覇気がなかった。
「名取さん、元気がありませんね」
庵は、心配そうに言う。以前の彼であったら、他人を気にかけることなどしかなったであろう。
だが、今は違う。睦実の大切な人は、やはり自分にとっても大切なのだ。なにより、睦実が大切に思っている人に何かあったら、睦実が悲しむ。
「酒、呑み過ぎたかもな」
「らしくない、ですね」
そう言えば、明仁がどんな反応をするか、庵には分かっていた。けれど彼は、あえて言った。
自分が睦実と共に生きることを許してほしい、一番の相手だから。なにか言いたいことがあるのであれば、包み隠さず言ってほしいのだ。
「らしくない、か?」
「はい」
「それならキミこそ、『らしくない』、だな。わざわざ地雷を踏むなんて」
その言葉に、庵は目を見開いた。明仁は、分かっている。なぜ庵が、わざわざ自分の不利になるであろうことを言ったのか。
湯気の中から、人影が立ち上がり、近付く。明仁の恐面が、自分の目の前に現れた。
「倉石 庵さん」
静かに告げる明仁の目は、ひどく優しい。その瞳にある感情は、慈しむ、思い。
親が子を想う瞳を。庵に向けてくれている。
「名取、さん…」
「俺は二人が幸せになってくれれば、それでいい。ただし」
その後は、なにも言わず。明仁は、庵の目を射抜いた。そんな彼に庵は、力強く頷く。
「よし。なら、いい。…風呂、入るんだろ? ゆっくりするといい」
言うなり明仁は、脱衣所へ続く戸を開けた。すると。
「はっあ〜い☆ 三助さんが背中を流しに来ましたよ〜っぅ☆」
ドラリンがタオル片手に脱衣所へ侵入してきたので、明仁は一瞬の内にタオルで前を隠し。軽くラリアットを食らわせてドラリンを強制退場させたのだった。