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庵は湯船には入らずに湯を浴び、体と髪を洗って、すぐに風呂場から出てきた。明仁の言葉を、彼の想いを、睦実に早く伝えたかったからである。
部屋着を素早く羽織って、通孝と千鶴に準備してもらった寝室用の部屋の襖を勢いよく開け放つ。
しかし、部屋に起きている人の気配はなく。静かな寝息だけが、広い室内に微かに響いていた。

寝て、しまっていたのか。

庵は睡眠を邪魔しないように、そっと床の間側の布団に歩み寄る。睦実は、幸せそうな寝顔で布団にくるまっていた。

「ありがとう…睦実、私を選んでくれて」

囁き、そっと額にかかった前髪をどかす。すると睦実の瞼が震えて持ち上がり、鳶色の瞳が顔を出した。

「…いおりぃ…?」

目線が彼を捉えるなり、睦実は庵の名を呼ぶ。ろれつの回りきっていない口調は幼く聞こえて。庵は愛しさを覚えて、優しく微笑んだ。

「ごめんなさい、起こしてしまいました」

庵の謝罪に睦実は数度瞬きをし、そして満面の笑みを庵に向ける。自分の拍動が不意に速くなり、ハタと庵は思い出した。
睦実が、女性であることを。
布団から手を出して睦実は庵の浴衣の袖を掴む。そんな彼女の行動に、庵は硬直した。

「いおり、ありがと。オレと一緒に、いてくれて」

言うなり睦実は体を起こし、庵に抱きついた。

「庵…ありがとう」

睦実は幸せだった。自分が大切に想っている人が、なにより自分を大切に想ってくれている。
庵だけではない。善太も右近も連賀も、明美も。そして、清一、大治郎、光、明仁…、ドラリン。

実の母の理解を得ることはできなかったが、きっと、いつか分かってもらえる、と信じている。分かってもらうために、頑張る勇気を持てるのは、支えてくれる人たちが、いるからだ。

睦実は、分かっていた。右近の気持ちも、明仁やドラリンの複雑な思いも。

二月ほど前、右近は自分に恋心を抱いてくれていた。けれど彼は、それに気付いてほしくなかったようだから、気付かないフリをしていたのだけれど。そんな彼は、率先して自分達を祝福してくれた。

明仁は、最年少の自分をなにかと気にかけ、弟のように可愛がってくれていた。もっとも、自分の性別が変化してからは弟が妹に変わり、そのうち娘のように慈しんでくれるようになったのだが…。

ドラリンは、もう、ずっと昔から自分を守り、愛してくれていた。勿論、今も。

かつて、自分がある男の性の捌け口として、そして彼の出世の道具として監禁されていた時。
あらゆる人が自分を助けようとしてくれていたが、その助けようとしてくれていた人が次々と男の手にかかり、殺されて。
自由を夢見ることもなくなっていた時。
彼女は、手を差しのべてくれた。
昔の自分は、もう、逃げ出す気力もなくて。なにより、その手は、すぐに『彼』によって消されてしまうと、そう考えていたから。だから、その手を無視した。
すると彼女は力ずくで『彼』の作った鳥籠から、自分を連れ出したのだ。連れ出された後も、『彼』が自分に飽きただけで、今度は彼女が自分の飼い主になったのか、と考えていたけれど。

そうでは、なかった。
彼女は本当に、自分を自由にしようとしてくれていたのだ。
それに気付いた時、涙が堰を切ったように溢れ出して、止まらなかった。
もう、自分の感情は死んでいる、と思っていたのに。自分の心は壊れたもの、とばかり思っていたのに。
嬉しくて嬉しくて、ひたすら泣き続けた。

そんな過去を振り返り、睦実は感謝の言葉を口にしたのだ。
自分の周りにある温もりと優しさを思い出させてくれた彼に。素直に嬉しいと思うことができるように、自分の心の氷を融かしてくれた庵に。
感謝と、愛情を込めて。
が、庵は無言で抱擁を受け入れているのみで、かつてのように腕を背に回すことを、一切しない。それに彼の体は、まるで人形のように硬直している。

「…庵…?」

不審に思った睦実は体を離して、庵の顔を覗きこんだ。彼の顔は不自然にこわばり、視線を自分と合わせない。

「あ、ああ、えーと、今日は、お、お、お疲れ様でした。そそそそろそろ寝ましょうか」

言うなり庵は、睦実がくるまっていた布団の隣に敷いてある、もう一客の布団に飛び込んだ。潜り込んだのではなく、飛び込んだのだ、勢いよく。
庵が自分の想いと言葉を無視するなど、思いもよらなかった睦実は悲しくて腹立たしくて、一言も追及せずに寝室を出ていった。
庵は布団から顔を出し、睦実が出ていったことに安堵すると同時に、罪悪感と後悔と自責の念に駆られた。
睦実は、親友だった。彼が傷付き涙を流していれば癒したいとも思ったし、その為に手を握ったり、抱き締めていた。
だが今は、睦実は女なのだ。
女性に免疫のない自分は、睦実にどういう顔をすればいいのか、分からない。
恐らく睦実は、今まで通り接してくるだろう。だが、自分は絶対に意識してしまう。

「どう、しよう…」

庵は一人ごちて、頭を抱えた。

    ****************

「む、睦実、どうしたんだ?!」

今まさに枕を投げようとしていた明仁は、思いもよらない来訪者に、思わず叫ぶ。睦実は部屋を出て行った後、男性陣に宛てがわれた客間に向かったのだ。
襖を開けるなり黙って部屋に入った睦実は、口を尖らせている。なにか面白くないことがあったのだろう、と部屋にいた全員が察した。

「睦実さん、あの、僕たちうるさかった?」

枕投げに熱中するあまり、大声を出してしまっていたのでは、と不安に思い眉をハの字にして問う明美。
そんな彼に睦実は、彼と同じような顔で「いいえ。庵が寝ちゃったから、来ました」と、返す。一見、淋しさと悲しみの表情を浮かべているが、睦実の背後には怒りの炎が揺れていた。

「お酒ありますか? なんだか、呑みたい気分なんです」

笑顔で問う睦実の目は、据わっている。笑顔なのに…いや、だからこそ余計に怖い、とホンゲダの5人と右近と明美と連賀は思った。

「睦実は、庵と一緒に寝ないのか?」

善太の問いは、明らかに地雷発言である。しかし、それは爆発せずに、睦実は静かに答えた。

「…いえ、少し眠って…起きたら、目が冴えちゃって。迷惑、でしたか?」

「いや、迷惑なんかじゃない。けどさ、その〜…」

「お前ら、新婚初夜じゃん」

尋ねる睦実に言い淀む大治郎の言葉を受け、ドラリンが代弁する。

「初夜っつったら、も〜、アツアツのラブラブで おぉっと火傷しちまうぜ みたいな? それなのに新婦が一人でコッチ来たってことはアレか? 成田離婚? スピード離婚?」

地雷を次々と踏むドラリンに、その部屋にいた男衆は二人から離れ、部屋の隅に固まる。もちろん、一番外側は善太と清一だ。

「…そんなんじゃ、ない」

言うなり睦実はその場にしゃがみ込み、庵の行動を、ドラリンにだけ聞こえる声で話した。

「…あ〜…。みんな、悪いが睦実は私の部屋に連れていくぞ。各自、就寝するように」

命じるなりドラリンは睦実を立ち上がらせ肩を抱きながら部屋から出て行った。

「…睦実…倉石に、なにか嫌なことされたのか? もしそうなら、今すぐにでも息の根を止めてやる…!」

二人を見送った後、一人で熱くなる明仁に右近は、笑顔で話す。

「えー? そりゃないっしょ。庵に、睦実に手を出す度胸なんて、あるはずないもーん」

それはそれで問題があるような、と清一と善太以外は思ったとか思わなかったとか…。

 

    

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