第三章
【あなたのためだけに湧く勇気】
「おはようございます、庵」
優しい声に瞼を持ち上げた庵は、妻の顔が間近に迫っていることに驚き、ベッドから跳ね起き、頬杖をついて寝そべる睦実と距離を取った。
そんな庵の態度に睦実は若干驚いたようだが、特に怒ったり悲しんだりはせずに、話しかける。
「オレ、今日は予算会議がありますから、帰りは19時くらいになります。ちゃんと朝と昼、食事をとって下さいね? じゃ、行ってきます」
言いつつ夏仕様の、薄でのパンツスーツのジャケットを羽織り、睦実は寝室を出て行った。
倉石庵・睦実夫妻は世間で言う『駆け落ち』をしたため──そして庵が有名人であるため、著名・有名人の住宅地のメッカである、白金台に一時的に住むことに決めた。
睦実の強い希望で、ドラリンの住む分譲マンションの上の階の部屋を借り、二人は暮らすことになる。
新婚さんといえば、ラブラブというイメージが一般的だが、今の自分達には程遠い。それは、ひとえに自分のせいだ。
「はぁ…」
ノソノソと、普段の彼からは想像できないくらいに緩慢な動きで庵は、ベッドに横になった。
同じ床で寝るなど、昔は当然のようにしていたのに、今その事実は、彼の神経を磨耗させるだけだ。
庵は毎夜、満足に寝られずにいる。そのため昼寝をして睡眠不足を解消しているのだが、それがバレて睦実に叱られた。
食事も満足に取らないで昼寝しているなんて、なにを考えているのか、と。
なにを考えているのか、などと問われて、答えられるはずがない。女性と同じ布団で寝るなんて緊張するから眠れない、などと、誰が言えようか。恥ずかしい、とかいうことではなく、その言葉は、きっと睦実を傷付ける。
だから、睦実には睡眠不足の理由を明かせなかった。
あの夜、夫婦の契を交わした日。あの日の自分の態度を、睦実は責めたり理由を追及してきたりしない。
それは有り難かったが、一方で自責を繰り返す要因にもなっていた。あの日から一月半が経とうというのに、全く進歩のない自分に嫌気がさす。
睦実が以前と──男であった時分と──同じようにスキンシップを求めてきて、『ただいま』と『お帰り』のハグをされる時。
自分は決まって、石のように硬直するか跳び退くか誤魔化して逃げるか、を繰り返してしまっている。
そんな自分の反応を、睦実はいつも苦笑して『まだ、慣れませんか?』と尋ねてきて、その日は極力触れたり近付いてきたりはしないようにしてくれる。
就寝時も、なるべく端に寄ってくれるし。
だが、いくら穏やかで優しい睦実でも、いい加減堪忍袋の緒が切れるのではなかろうか。その前兆として、睦実が、何をするにおいても、自分に近付く距離が縮まっている。
帰宅時の『ただいま』を言う時も。料理の時も。片付けの時も。なにか話す時も、必ず近くに寄ってくるのだ。
「あ、庵! 言い忘れたことがあったんですけど」
出かけたとばかり思っていた睦実が、急に寝室に駆け込んできた。ので、庵は飛び起き今までの思考から必死で切り換え、問う。
「は、は、はい、なんでしょう?!」
「トマト、あんまり食べ過ぎちゃダメですからね?」
睦実の忠告に、庵は何度も首を縦に振る。
「それじゃ、行ってきまーす!」
そんな庵に笑顔で頷きながら睦実は、駆け足で出て行った。
玄関のドアが閉まった音を耳にして、庵はベッドに顔を埋める。睡眠をとるために目を閉じ、全身の力を抜いた。
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「…庵のバカ」
睦実は下の階へ向かうエレベーターを待つ間、独り言を呟いていた。
「オレが女になった途端にヨソヨソしくなるし前みたいに手繋いだり抱き締めたりしてくれなくなるなんて…信じられない! 司令官は、ああ言ってたけど…」
やはり、自分の選択は間違っていたのだろうか。睦実は、自分に対する庵の反応を目にし続けて、そう思わずにはいられなかった。
自分がアメリカにいた時の習慣として、ハグしたり頬にキスをするのは、親しい間柄なのであれば自然なこと。
だから自分も、そうしたかった。けれど庵は抱きつくと硬直するし、逃げるし。近付くと、なんやかや理由をつけて遠ざかるし。
「…も、いっそ離れたほうが、いいのかな…」
本当は何度も何度も、そう考えた。その度にドラリンになだめられ、励まされてきたけれど。
そろそろ、限界に近かった。
側にいれば、スキンシップをしたくなる。ならば、離れればいいのだ。
睦実は静かに決意し、ドラリンが車を停めて待つ、マンションの地下駐車場へ向かった。
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「ただいま…」
夜18時半。睦実は、庵との新居に帰宅する。
今日の予算会議で、睦実は老狸たちを相手取り、予算分配と去年の資金の内訳について等、様々な論議で大活躍であった。
が、そのような古狸たち相手に睦実は精神力を使い果たし、疲弊しきっている。
「庵…?」
パートナーの名を呼ぶと、彼が愛用している黒のエプロン姿で庵が顔を出した。
「睦実、おかえりなさい。疲れたでしょう? 食事、できてますよ」
微笑みながら優しい言葉をかけてくれる庵に、睦実の心は痛み、揺れた。彼に、別離を切り出したら。彼は接触や抱擁が嫌でも、自分の望むように、してくれるだろう。
だが、そんなのは御免だ。自分の欲求のためだけに相手に無理をさせるなんて、そんなことはしたくない。
自分が我慢しさえすれば。そうすれば、平和に暮らせる。
「…あ、りがとう」
やっと絞り出した声は震えていた。睦実は、自分の様子がおかしいことに気付かれたのではないかと焦り庵を見る。案の定、彼は心配そうに自分を見つめ、近付いてきた。
「大丈夫ですか睦実?! なにか嫌なことでもあったんですか??」
心の底から問うてくれる優しい人に、睦実は思い直す。もう少し、もう少しだけ、待とう。
「いいえ、なんでもありません。ただ…」
「『ただ』?」
「…女になって、不便なことや腹立たしいことが多くて。ちょっとだけ、辛くなりました」
その言葉を耳にして庵は、目を見開く。彼は何も言えないまま、彼女を抱き締めることもできないまま、ただ廊下に立ち尽くす。
そんな庵に苦笑して睦実は靴を脱ぎ、彼の横を通りざまに肩を叩き金縛りを解いてやった。
「食事にしましょう」
の一言を告げて。