食事が終わり、二人はリビングのソファに座って他愛ないことを話し始めた。
と、庵は先程の睦実の様子が頭の隅に引っ掛かっていたため、今日の仕事はどうだったか、と問うてみる。すると睦実は数秒逡巡していたが、口を開き話し始めた。

「…今日の予算会議は、オレたちの部署に回す予算の審議もしたんですよ」

「そうなんですか…。大変でしたね」

「いえ、隕石回避の功績を認められていますから、さほど大変なことはありませんが…」

途中で言葉を区切った睦実に、庵は続きを促す。

「…『が』?」

「オレが、女になって。無意味に触られたり、することが…多くなって」

苦しそうに、そう溢した言葉の内容を解した庵は、感情を荒波だてた。

「な…んですって?」

「肩とか腰を触ってきたり…、後ろから、抱きつかれたり、して」

もっとも、そのような恥知らずの老人たちには『毒舌補助眼鏡弐式』によって精神的ダメージを与えた上で明仁に懲らしめてもらった。
だが、こみあげてくる気持ち悪さは、どうしようもない。痴漢行為が、どれだけ女性にとって心の傷となるのか、分かっていない人間。そんな彼らに、どんな報復をしても気が晴れなかった。

「気持ち、悪かった」

睦実は言うなりソファの上で膝を抱え、うつ向く。

「睦実…」

庵は、昔のように睦実を抱き締め、甘えさせてやりたかった。だが、どうしても。躊躇する気持ちが消えてくれない。
庵の心臓は大きく跳ね続ける。
傷付いた大切な存在。どうにかして、その苦しみを和らげたい。しかし、思考と相反して体は動かなかった。

「庵…」

名を呼び、睦実が庵に抱きつく。庵は、睦実の背中に手を回そうとした。しかし、やはり体は動かない。

「頬にキス、してくださいませんか…?」

「えっ? き、キス?!」

「抱きつかれた上に、頬にキス、されたんです…。気持ち、悪くて…。上書きして、ください!」

今まで抑えてきた老人達への嫌悪感が、庵に話したことによって爆発してしまった。睦実は庵に、涙目で訴える。
泣きそうな声で懇願されるも、体は言うことを聞いてくれない。声も、出てきてくれない。
大切な人に嫌な思いをさせた者への怒り。睦実を慰めたい気持ちと、妙に意識してしまう気持ちが拮抗してしまっていて、思うように行動ができなかった。
と、睦実は唐突に体を離す。その、彼女の目には、悲しみと怒りの化身が満ちていた。

「む…」

「庵は、オレが…ここまで言っても。キスは愚か、前みたいに抱き締めてもくれないんですね」

「いや、あの…違…」

庵の言い訳もなにも聞かず、睦実はベランダに駆ける。

「む、睦実?!」

そのまま飛び降りてしまいそうな勢いに、庵は度肝を抜かれて妻の名を叫んだ。

「『イージス零』!」

睦実が呼んだのは、護衛用鳥型ロボット『イージス』。日本国においての重要人物である睦実を、常に護っている。

「ちょ、睦実、なに…!」

庵が睦実を追い掛ける数秒の間に、睦実は鳥型ロボットの足に掴まり下の階のバルコニーへと降りた。

「司令官ー、司令官!」

睦実がガラスを叩いて上官を呼ぶと、戸の開く音がし、ドラリンの声が聞こえる。

「おりょっ? 睦実、どーしたん?」

「庵と喧嘩しました。今日から此処に泊めてくださいませんか?」

「おー、いいぞいいぞ。ま、入れ。ところで、どーやって此処に?」

「イージスに運んでもらいました」

「そーかぁ。じゃ、しっかり鍵かけて防衛用シャッター閉めて、ダニ一匹入れないようにしよう☆」

ドラリンの台詞の後にシャッターの閉まる音がし、二人の会話は一切、聞こえなくなった。

「こ、こうなったら正面きって睦実を取り返しに行くしかありません…!」

庵は、慌てて部屋に戻り携帯と鍵を持ち、一つ下の階の、ドラリンの住居に向かうのだった。

    ****************

…ピンポーン。

ドラリン宅のリビングに来客を告げる音が響き。

「来た来た」

家主は飲みかけのアイスティーのグラスをテーブルに置くと、電話と一体型のインターホン装置の受話器をとる。
壁掛け式の電話機の上、外部モニターに映されている顔はもちろん、

「やぁ、いおりん☆」

今しがた妻を悲しませて激怒させて家出された男。

「…睦実が、お邪魔していますよね?」

エレベーターを待つ時間も惜しくて階段を駆け下りてきたのだろう。庵の肩は上下し、声も切れ切れだ。

「ああ、来てるよ」

「会わせて、ください」

「土下座」

「…?!」

「土下座したら、開けてやろう」

ドラリンの言葉に驚いたのは庵だけではなかった。
睦実はあわててソファから立ち上がりドラリンに駆け寄る。

「司令官! なにもそこまで……!」

させなくても、と睦実が言おうとした時だった。

庵が、その場で、地面に額をつけ土下座をしたのは。

 

―――なんだか、デジャヴですね。

地べたに這いつくばりながら、庵は思う。
昨年の晩秋。明美を迎えに来た連賀に、自分も今と似たような台詞を吐いたことを思い出した。

あの時はまさか、言われる立場になろうとは夢にも思わなかった。
己の尊厳をかなぐり捨て本当に土下座をした連賀に呆れ、更に冷たい言葉を浴びせかけたが。

今なら、彼の気持ちがわかる。

 

「睦実……」

ドラリンは睦実を顧みた。彼女とて自尊心の塊である庵が土下座をするなどと、思っても無かったのだから。
しかし睦実に意見を仰ごうとして彼女の顔を見たことを、ドラリンは後悔した。

「帰ってください!!」

ドラリンから受話器をひったくり、怒鳴った睦実は。

鬼、とも言えるような。

憤怒の形相をしていた。

ガシャン、と受話器を叩きつけるように乱暴に置く。
そして暗転したモニターを見つめる睦実の肩を、ドラリンは優しく叩き、ソファへ座るよう促した。

なぜなら睦実は不動明王も裸足で逃げ出すほどの憤怒の表情だったが、その下では今にも泣き出しそうな悲哀の表情が滲んでいたから。

 

    

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