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逃げ込んだ先は、滅多に人が入らない薄暗い倉庫だった。

睦実は床に蹲り泣きじゃくる。

「いっ…… いお、り……」

脳裏にちらつくのは、呆然と自分を見ている庵の顔。
彼の唇は切れ、血が滲んでいた。

その赤色を、その何も理解できていない瞳を、思い出すたびに心が悲鳴を上げる。

「ち、ちがう…… ちが、う……」

震えているのに、望んでいないのに、相手を失うことを恐れて命令に従うその姿に、過去の自分が重なった。
『彼』しか自分を救うものがいないと思い込まされ、『彼』に嫌われることを恐れて慰みの道具になってしまった自分。

今の自分は、その『彼』と同じ事をしている。

庵は元々人に触れることに恐怖していた。
女性が苦手だということも知っていた。

なのに、自分は庵の愛情を利用して彼がしたくもない事を、させたのだ。

あれほどに恐怖し、憎み、忘れたいと願っていた『彼』と同じ事を自分がするだなんて。
今まで知りえなかった己の卑しく残酷な欲望に、睦実は胸の内がゾワ、と冷えるのを感じる。

「ちがう、こんなの、愛情じゃ、ない……!」

その叫びは絶望に満ちていた。

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司令室は静まり返っていた。
庵は呆然と立ち尽くしているし、それ以外の、睦実の上司や同僚達もまた、呆然とせざるを得なかった。

「……ドラリン、さん」

「ほ、ほぇっ?!」

庵に突然声をかけられ、ドラリンは妙な返事しかできなかった。

「睦実がどこに行ったか、わかりますか?」

「あ、うん、ちょっと待ってろ」

彼女はパソコンを操作し、睦実を一定の距離から常に護衛している『イージス』の位置情報を呼び出した。

「第3倉庫…司令室出て左の廊下をまっすぐ、5つ目の鉄扉だ」

「ありがとうございます」

礼を言うなり駆け出した庵を、残された5人はポカンと見ているしかなかった。
愛する者を追うその背中は逞しく、迷いの欠片もない。

「…びっくりしたぜ」

冷や汗を拭うドラリンに、

「司令官が殺されるのかと思った。八つ当たりで」

大治郎は息を吐きながら物騒なことを言った。

「でも、庵さん全然怒ってなかったさー」

「むしろホワイトがあんなに感情を露にして怒るなんてな」

庵の成長と睦実の変化を目の当たりにし、大治郎と清一は驚きをのそのまま口にする。

「そうだ、な」

明仁は嫁婿の暴挙にぶちきれると思いきや、庵の頼もしげな態度に一転して笑みを浮かべ。

「…あのさ」

そして、今まで黙りこくっていた光が口を開いた。

「余所でやれ、って思ったのは、僕だけ……?」

夫婦喧嘩、犬も食わねぇ、と。
うんざりした彼の顔にはそう書いてあった。

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重い戸を開ける気配がし、次いで廊下からの光が差し込み、また消える。

「睦実」

薄暗い空間に自分を呼ぶ声が響き、睦実は頭を抱えたまま縮こまった。

「こ、こないで、ください!!」

睦実は、これ以上、庵を縛りたくなどなかった。
でも、庵はためらいも無く睦実に近づく。

床に膝をつき、睦実を抱きしめた。

「やめ、て……」

庵の腕はギクシャクしていて、抱擁にしては力強すぎた。
その不器用さが睦実を更にさいなむ。

本当は、こんなことしたくないんだよね?
オレが怒ったから、こうしてるんだよね?

もう離していいんだよ
俺のために苦しまないで

喉が引き攣れて、言葉が出ないまま、睦実は庵の腕を必死に振りほどこうとする。

「大好きです、睦実」

ふ、と庵は睦実から体を離した。突然解放された睦実は目を見開き彼を見上げる。
庵は睦実と向き合い、その震える両肩に自分の手を乗せた。

「教えてください。どんなときに嬉しいのか、どんなときに安らげるのか」

彼の手の怯えるような強張りが、睦実の肩にも伝わってくる。

「私は、上手く出来ないことが沢山あって……時間も、かかったりします、けど、」

しかしそれに反して庵の顔は優しく頼もしい。

「けど、あなたと一緒に幸せになっていこうと、決めたのだから。」

庵の言葉は揺るぎない強さに満ちていた。
それが睦実をなおさら切なくさせる。

「いい、のに。無理しなくても、いい、よ……」

睦実の目から新たに涙が落ちる。その濡れた頬に庵はぎこちないながらも優しく触れた。

「無理なんて、してませんよ。……確かに、勇気がいりますけど、睦実が勇気をくれるから、怖くても、失敗しても、格好悪くても、平気です。 睦実と一緒なら、頑張っていけるんです」

そして庵は目一杯の笑みを睦実に向けた。

「だから、睦実、笑って? 睦実が嬉しいことが、私にとって一番嬉しいことなんですから」

睦実は涙を止められなかった。
しかしその雫は先ほど一人で泣いていたときとはまるで違う、暖かな涙。

「あり、がとう……」

睦実がようやく微笑んだのを見て、庵は安堵したのか息を吐いた。
そして表情に少し照れを含ませる。

「だから……その、頑張って、下手だったり、ダメだったりしたときは、大目に見てやってくださいませんか…?」

一転して情けない恥じらいの表情をうかべる彼に、睦実は一瞬呆気に取られ、そして笑いがこみ上げてくれるのを抑え切れなかった。

「わ、わかり、ました…っ」

胸の奥がくすぐったくて、クスクスとこらえきれずに声を上げてしまう。

「む、睦実?」

突然笑い出した睦実に庵は動揺を隠せない。
睦実はそれに構わずにひとしきり声を立て、ようやく笑いが収まると、心配そうな彼を真っ直ぐに見上げ、目を合わせた。

「嬉しいんです、とても」

言って微笑んだ睦実を、庵は抱きしめた。
先程よりもずっと上手で優しい抱擁。

その暖かな温度の中、睦実は幸福感でいっぱいだった。

『一緒に幸せになっていこう』

―――ええ、なりましょう。

『睦実が嬉しいことが、私にとって一番嬉しいことなんです』

―――オレも、そうですよ。

この温度は強制されたものではない。ここには確かなぬくもりがある。

『彼』との間には決して存在しなかった、強く暖く、優しい愛情が。

 

    

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