【花ひらくとき】
「庵〜、喉が渇きました〜」
「はいはい。紅茶で良いですか?」
防衛省最下層のホワイト専用ラボでは、部屋の持ち主以外に、彼女の伴侶である倉石庵の姿があった。
庵と睦実が仲直りした、その日から。二人は、それまでの心の溝を埋めるが如く、始終一緒にいた。
睦実の仕事時、庵はホンゲダバーの休憩室で本を読んだりインターネットで株の売買をしたり。そして睦実の終業時間になると、二人はドラリンの運転する車に乗って、自宅に帰る。帰宅してから二人は食事の支度をし、出来上がる頃にドラリンを呼びに行き三人で夕飯を取るのが常であった。
が、一ヶ月経つ頃には庵と睦実の新婚生活も段々とらしくなって行ったので、ドラリンは食事をともにするのを遠慮するようになる。
睦実は庵に甘え、常に手に触れたり肩にもたれかかったり。
とにかく二人の周りの空気は、砂糖菓子のように甘いというか。ピンク色の空間が広がっているというか。
要するに周囲の人間は、たいへん居堪まれないのだ。
紅茶をいれ、睦実に渡すと彼女は目を細め、頬を赤らめながら礼を言った。
「ありがとう、庵。あ、そうだ。あの…ぎゅっ、て、してくれませんか?」
顔を先程よりも朱に染めて遠慮がちに頼んだ睦実に、庵は少し悲しそうな表情を向ける。
「分かりました。…今日は会議ですもんね」
「はい…」
了承の言葉を告げながら、行動に移してくれた夫の背に、睦実は自分の腕を回した。
「その場にいて、あなたを守れないことが…辛い」
呻くように出された懺悔の言葉に、睦実は苦笑して返す。
「そんなこと…。ただ、こうしてくれるだけで…どんな屈辱にも堪えられるんです。庵が守ってくれてるんですよ? 勇気をもらってるんです、こうやって」
ありがとう、睦実は、そう続けた。
けれども庵には、歯痒くて仕方がない。思うように大切な人を守れない。そう、思ったから。けれど睦実は、そんな風に思うことはない、と言ってくれる。
庵の心の中の、理不尽な人間達に対する怒りが、次第になりを潜めていった。
「睦実…」
庵は睦実を、壊れ物を扱うように優しく抱き締める。
一月ほど前は、力が入りすぎだったり震えてしまっていた腕だが、今はこんなにも自然に、睦実をこの手に抱くことができた。
一つ、気付いたことがある。
睦実を抱き締める際、力を入れすぎると彼女の胸が自分の胸に強く押し付けられてしまうので、余計に緊張したり不自然に力が入ってしまったりするのだ。
ので、庵は己の力をコントロールする術を身に付けることが、自然体で居られることにつながる、という発見をした。
「会議、…負けないで、くださいね」
密着した体から声の振動が伝わって、響く。互いの温もりが溶け合って、より熱く感じた。
今は、秋。それにラボは地下にあるので、少し肌寒いけれど。二人でいれば、空気の冷たさなど、ちっとも気にならない。
「庵、そろそろ、行くね」
口調が幼くなっているということは、睦実が自分に甘えて安心しきっていることに他ならない。
「ええ。…頑張って」
言いつつ庵は体を離し、睦実の頬に口付けた。
「うん、頑張る」
睦実も庵と同じように頬にキスをする。
「じゃ、行ってくるね」
両の頬を緩めて微笑んだ睦実は、白衣を脱いでアイボリーのジャケットを羽織り、ラボから地上に上がるエレベーターに駆けた。
「…? なんだろう?」
睦実は、体に微かな違和感を覚え、エレベーターで独り、呟きを落とす。最近、庵と抱き合った時、沸き上がる奇妙な感覚を覚えるのだ。
下腹部の辺りが温かくなって、腰が抜けそうになる。その不可解な現象は、日毎に強まってくるようだ。
「病気、かな…? ちょっと司令に相談してみよう」
そう結論づけた睦実を乗せたエレベーターは、地上に着いたのだった。
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「お疲れ様、睦実」
一時間半後、ラボに戻った睦実は庵の笑顔に迎えられた。だが、出迎えられた張本人は表情に翳りがある。
「睦実? また奴らに嫌がらせを受けたんですか?!」
妻を心配する一方で助平爺たちに対する怒りにより、庵の感情ボルテージは一気に臨界点を突破した。
「え? あ、いえ、違い…ます。ただ…」
睦実の顔は能面のようになり、いつもの人好きのする笑顔が消えている。
「ちょっと、考え事をしていて。ただいま、庵」
言うなり微かに笑みを乗せた睦実に、庵は危機感を募らせた。
絶対に、おかしい。いつもであったら会議や審議会やらがあった後はストレスが多少なりとも溜っているということで、すかさず自分に抱きついてきて息抜きをするのに。
今の睦実は抱きつくことはおろか、近付いても来ない。
「睦実? なにか…あったんですか?」
庵の問いに、睦実は表情だけでなく全身を強張らせた。
「いや、その…機密事項ですから、一般人には…言えません」
ごめんなさい、と最後に告げるなり沈黙した睦実に、庵は歯を食いしばる。
「…そう、ですか…」
庵のその様子に、睦実は申し訳ないとは思いながらも、事情を明かすこともできずに、ただ庵から目を逸らし、先程の会議が終わった後の、上司との会話を思い出していた。