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「おー、いおりん来た来た。ま、座れ座れ。なに飲む?」
ドラリンは、普段であったら絶対に二人では会わない人物と、著名人御用達のイタリア料理店で待ち合わせをしていた。
庵はイタリア料理が好きだ、と我が子のように可愛がっている部下に聞いていたので、一ヶ月待ちと言われている店を店長に無理を言って空けてもらったのだ。
彼女は、なかなか二人きりで話すことのない娘婿と、みっちりと話をできるということで喜々としている。
反面、庵はというと。
妻に冷たい態度を取られるようになってから、はや三週間。精神的に、完全に参ってしまっている。
睦実が、抱き合ったり軽いキスをしたり、果てには触れることさえも拒むようになってから、庵の情緒は不安定になっていた。
ふとした時に涙が出そうになったり、いちゃつく恋人たちを見ると苛ついたり。
そんな中、犬猿の仲である女性と二人でランチ。泣きっ面に蜂と言うか、傷口に塩を塗ると言うか。兎にも角にも、この上ないメンタルダメージである。
しかしながら庵の中に、彼女の誘いを断る、という選択肢はなかった。なにも、予約のなかなか取れないと有名なレストランのイタリア料理につられたわけではない。
ただ、ドラリンが。自分が睦実と共に出勤しなくなったことを案じて、電話をかけてきて。睦実のことで真面目な話がある、と言ってきたから。だから、庵は天敵の誘いに乗ったのだ。
「…飲み物は、特には要りません。食事も、なににするか決めてませんし…」
「うむ、もっともだな」
庵に賛同し、ドラリンは視線をウェイターに遣り、食事の注文をした。
「シェフのお任せコース2つ。メインは何?」
「メインは、舌平目のムニエル野菜添えでございます」
「じゃ、ワインは白だな。…これをグラスで2つ頼む」
「かしこまりました」
勝手に注文をしたことに、本来は文句の一つも付けた方が良いのかも知れない。が、今の庵に料理や飲み物を選ぶ気力はなかったので、ありがたかった。
「勝手に決めてしまったぞ。この後、なにか予定はあるか? 酒は、まずかったかな」
「いえ…予定は特には。今日は日曜で、株の売買もないですから」
ドラリンは、そんな弱りきった庵の様子を、まじまじと観察した。
白いキメの細やかな肌は、今は青みがかった色になり。目の下にはクマ。唇は血色が悪くなり、いつもの悪口雑言が出てこない。
「相当、こたえてるなぁ…。睦実と一緒にいられなくなったのが、辛いのか?」
庵は、自分の不調の原因を言い当てられ、ドラリンの顔を凝視した。
「そんな、おっかない目で睨むない! いつも睦実がお前と出勤してたのに突然、私の車に乗り込むのが睦実だけになって。これでも心配してたんだよ! 喧嘩したのかな、とかさ」
ドラリンはサングラスを外し、庵を見つめた。
「…なにが、あった?」
昔の自分であったら、天敵であるドラリンになど、事の経緯など話さなかったであろう。
しかし今の自分は、心の壁を作り出す余裕もないほどに追い詰められている。それに彼女は、恐らくは自分と睦実とを繋ぐ架け橋になってくれる筈だ。
「睦実…が急に、私が抱き締めたりキスすることを拒むようになったんです。なんの前触れもなく…。職場にも、来なくて良いって。皆の目が恥ずかしいから、って。でも、そんなこと今までだって一度も言ったことなかったのに」
予想どおりの庵の告白にドラリンは、こっそりと溜め息を吐いた。
「それで、私は…そういう時もあるだろう、と、睦実が元に戻るのを待っていました。けれど」
そこで言葉を区切り、暫く考え込んでから庵は続ける。
「近頃では、触れることにさえ過敏になって…」
まるで、昔の自分みたいだった。なにかに、怯えた顔。
「あなたは、なにか知っていませんか? 睦実が豹変した理由を…」
「…多分、知って、いる」
その答えを耳にした庵は勢いよく立ち上がって、ドラリンにテーブル越しに詰め寄る。
「知ってるんですか?! な、なにを?!」
「落ーち着けって! ここ、外なのね? 泣く子も黙る高級店なのね?」
理性を失った庵をいさめ、ドラリンは出された料理を食べるように勧めた。長くなるから食後のティータイムに全てを話そう、と告げて。
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「…では、全てを話そう。睦実がお前に、よそよそしくなった理由を…」
彼女は食後のコーヒーが出てくるなり人払いをしてから口を開いた。その、語り口の重々しさに、庵は身構える。
「お前は今、睦実に対して、どんな感情を持っている?」
明確な答えが出されるのかと思いきや、彼女が口にしたのは自分への問いで、庵の脳内は疑問符で埋め尽くされる。
「どんな、って…とても大切、です」
庵の答えに、ドラリンは困ったように唸る。
「そうだよなぁ…。よし、質問を変えよう。庵は睦実を好きだよな」
「えっ? あ、はい、好きです」
「その『好き』は、親友として、か? それとも、異性として?」
問いかけの真意が分からず、そして回答するのが恥ずかしくて、庵はぶっきらぼうに答えた。
「な、そんなこと…親友として、に決まってるじゃないですか!」
「…本当に?」
「本当ですよ!」
「…そうか。残念だ…」
「残念、って…な、なにが、なんですか?」
勢いを失った庵にドラリンは、今の睦実の状態をかいつまんで話し始めた。
「今、睦実は完全な女性になろうとしている。今までは、男であった時分の自我が色濃く残っているが、無意識──すなわち本能レベルでは、既に女となっているのだ」
「…つまり…?」
「睦実は女の本能が目覚めてから、お前の側に寄ることができなくなった。それは何故か?」
言葉を区切り、彼女は深呼吸をして続ける。
「意識してしまうから、ではない。むしろ意識上では、お前への気持ちは親友以上恋人未満、てヤツだったろう。だが、本能が自我に勝った時…お前の前で睦実は、一人の女になってしまうわけだ」
ドラリンの回答は、庵にとって予想外どころの騒ぎではない。
「じゃ、じゃあ…睦実が私から、しきりに離れようとするのは…」
「うん。恐れて、だろうな。女としての自分が目覚めて、その欲求をお前に向けるのが。だから…離れる。その行動が、自分の寿命を縮める結果になろうと…」
ドラリンの最後の一言に、庵は頭を強く殴られたかのような衝撃を受ける。
「寿命を縮める…ですって…?」
「ああ。お前の側は、睦実にとって何物にも代えられない安らぎの場所。その安息の地を離れれば…心の傷を回復する場は失われ、自らの命は削られる。それが、ポリグラフ症患者の宿命だ」
ポリグラフ症という病名は、睦実と親しい付き合いをし出した時にドラリンに聞いた病の話だった。
この病の患者は、人の言葉の真偽を見抜く。ただ、彼らは人の嘘を察知する度に、想像を絶する苦痛を味わう。結果、精神的打撃を受けた彼らは、寿命を縮めてしまう、というのだ。
その話をした時も、今でも。彼女の瞳は恐ろしいほどに真剣そのものであった。
「睦実が、こんなにも長く生きていること事態が奇跡なんだ。本当は、いつ死んでもおかしくないのに」
ドラリンは、悲しみとも怒りともつかない表情を浮かべていた。
その、『宿命』とやらが、睦実の命を削っている。そう考えて庵は、決意をした。
「教えてください、ドラリンさん。私は一体、どうすればいいんです?」
「…睦実を失いたくないがために、望まないこともする、ということか? そんなこと、睦実が喜ぶはず無かろう」
ドラリンの指摘を庵は毅然と否定する。
「違います!」
「しかし先程、お前は睦実を『親友として好き』と言ったろう」
「確かに…そう言いました。けれど…その、実は…睦実のことを、親友、と呼ぶには…正直適切でないのではないかという気持ちもありまして…」
「へっ?」
考えてもみなかった反応に、彼女は気の抜けた言葉で返答をしてしまった。
「いや、その、睦実を抱き締めていると、今までのそれとは違った感覚になるといいますか、その…すごく、気持ちよくて。安らぐというか、なんというか」
ハッキリしない物言いではあったが、ドラリンには庵が睦実に対して、どんな想いを抱いているかに気付いた。
──なーんだ、両想いなんじゃん、この嘘吐きめっ☆──
「でも、やはり女性に対して苦手意識というか、嫌悪感を持ってるんだろ? 睦実が望むことは、キミには出来ないんじゃ…ないか?」
「嫌悪感を睦実に持つわけありません」
「あ、そですか…」
キッパリと言い切った庵に、ドラリンは心の中で『ゴチソウサマです』と呟く。
「それに睦実は昔、言っていました。『あなたが汚らわしいと思っている行為は、お互いを愛する気持ちが加われば、とても尊いものになるんですよ』と…。今なら、なんとなく…その言葉の意味が分かる気がするんです」
ヒタと向けられる瞳は、真っ直ぐでひた向きで、ドラリンは、とても心地よかった。こんなにも大切に想われている睦実が誇らしくて、庵の気持ちが嬉しくて、鼻の奥が痛む。
「私には…」
「うん?」
「箍が外れたら…睦実に、どんな汚らわしい行為をするか分からない、という恐怖が、ありました。だから、睦実を恋愛対象にしないようにしていたんだと…思います。けれど、それが逆に睦実を苦しめていたんですね」
これでは右近に睦実を奪われてしまうな、と庵は苦笑する。一方ドラリンは、自分に対して此処まで自己開示するとは相当、庵は切っ羽詰まっているのだな…、と思った。
「…あのさ、思い切って睦実に提案してみないか?」
「…なにをですか?」
「ごにょごにょごにょ…」
「……え゛」
「睦実は過去のことがあるから、自分から求めることに臆病になっている。こっちから働き掛けるしか策はないぜ」
予測していないどころか自分の思考では一生考え付かない類の話をされて、庵は引き攣った笑みのまま固まったのだった。
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庵とドラリンが、今後の夫婦生活を円満にするための話し合いをしている時。睦実は一人、家でソファにもたれかかって考え事をしていた。
「庵……」
ドラリンに、自分の今の状態を解き明かされた彼女は、その日から、ずっと悩んでいた。
自分が、庵と肉体関係を持つことを望んでいる、なんて。受け入れがたい現実だった。
だが、確かに庵が肌を露出しているのを見たりすると、思わず目を逸らしてしまう。
触れられると心臓は早鐘を打ち暴れるし、抱き締め合ったり頬へのキスをされた日には、全身の力が抜けて、如何ともしがたい気持ちになるのだ。
自分は、元々男だった。決断する際、ドラリンと色々話し合ったが、やはり自分の意思は変わらなかった。
けれど、どうだろう。実際その状況になると、ひどく恐ろしい。
自分が変わっていくのが。自分が望むこと、そのものが。
もし、庵に自分の状況を話したとしたら。彼はいったい、どんな反応をするだろう。
やはり、無理をしてでも自分の意思を尊重し、嫌悪する行為をするのだろうか。
それとも。
『過去にあんなことがあったからそんなに積極的になるのか』
とか、
『過去にあんなことがあったのに自分から求めるなんて、なんて淫乱なんだ』
と、軽蔑されるかも知れない。もし、そんなことを一瞬でも思われたら、きっと自分は死んでしまう。悲しみに、とり殺される。
睦実が全てを明かすことを恐れるのは、自分の変化を受け入れられないから、ということだけではない。
それも、大きな要因の一つになっているのだ。
「もう、ダメ…ですね」
これ以上、庵の側にいたら、彼を苦しめるだけだ。そして自分も、また、辛い。
睦実は、先日役所に行って、もらってきた一枚の紙に、自分の名前を記入し印鑑を押す。その紙の左端には『離婚届』と印字されていた。