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庵が帰宅したのは午後5時。冬目前の真っ赤な夕陽がリビングに茜の光を投げかける時分だった。

「今帰りました」

「庵?」

挨拶と同時に室内に入ってきた夫を見、睦実は咄嗟に離婚届を後ろ手に隠した。

「おかえり、なさい」

庵に気取られないようにテーブルの下で小さく畳み、尻ポケットに入れる。

記入はしてみたものの、やはり庵の前にこれを突き出すにはかなりの勇気が要る。
別れを切り出されたら夫はどうするだろう。

夕陽に照らされているというのに、彼の顔は病的に白い。
彼から睦実が遠ざかっている今でさえ、こんなにも庵は磨耗しているというのに。

「すみません。本屋に寄っていたら遅くなってしまいました」

庵は苦笑して数冊のハードカバー本の入ったビニール袋を少し持ち上げて見せた。青い袋が重たそうに揺れる。

「沢山買ったんですね。重くなかったんですか」

「まぁ、多少は。でもどれも必要でしたから」

庵は微笑む。睦実も微笑んでいる。
睦実が身体的接触に過敏になってからも、いや、なったからこそ余計に、二人は饒舌になっていた。言葉のコミュニケーションを多くすることで、スキンシップが出来ないことをお互いに紛らわせたいのだろう。
だがその和やかな会話はひどくむなしく響くだけだということも、二人は自覚していた。

―――こんな表面だけの言葉を交わしたいわけじゃない。

睦実の疾患・ポリグラフ症は相手の心の傷やねじれを感じる病。
庵が微笑み優しい言葉をかける裏でどれほどの寂しさを抱いているのか、睦実には全てわかる。

これ以上彼を傷付け戸惑わせるのは嫌だった。
そのたった一つの寂しい優しさが睦実に最後の勇気を与える。

「夕食の支度をしましょうか。何が食べたいですか? 材料買ってきますよ」

スーツ姿のまま着替えもせずにキッチンで冷蔵庫の中身を探る庵の背中に、睦実は意を決して声をかけた。

「あの、庵」

呼びかけられ、振り向いた彼と目が合い。
睦実はピリピリとした痛みを頭部に感じた。舌も痺れていてチクチクと痛い。

「オレたち、もう―――」

「睦実」

睦実の声を庵はさえぎった。思いつめた表情で自分を見つめる彼女の口から発せられるのが、別れを告げる言葉だと庵は察していた。
だから、庵は睦実に駆け寄り彼女を強く抱きしめて、その唇を己の唇で塞いだ。

「ぅんっ……!」

睦実は驚き苦しげな声を出したけれど。
どうしても別れの言葉を言わないで欲しかった。言えばきっと、彼女の心は傷つき、命が削り取られるだろうから。

二人は長い間唇を合わせていた。
以前にしたときは硬く痛いものだったけれど。
力のコントロールが上手になったのと、先ほどの『話し合い』のお陰だろう。今度の庵の唇は柔らかく優しく、睦実は己の意志とは裏腹に体の力がどんどん抜けてゆくのを感じていた。

しかし息がもたなくなり庵がわずかに唇を離した隙をついて、睦実は最後の力を振り絞って彼の胸を突き飛ばした。

「ふっ…… ぅくっ……」

涙が、あふれだす。

「うわあぁぁぁぁぁんっ」

睦実は泣いた。

乱暴な拒絶を受けたというのに、庵は少し紅潮した顔で微笑んでいた。
その優しい顔もすぐに霞んで見えなくなる。

別れを告げようとしたのに、その決意が再びくじけてしまった悔しさと
口づけに心地よさを感じてしまった己の本能への恐れと
それでもやはり庵のことが好きだというどうしようもない気持ちがない交ぜになって。

どうすれば良いのかわからないまま、睦実は感情の奔流に押し流されるままに声を上げて泣いた。

「睦実」

慟哭する睦実を庵は再び抱きしめた。

「いやだァっ …う、うれしッことだけ す するッて いやがること、しないっ て」

「ええ、言いました」

「じゃ、はなして はな、せェえええぇっ!」

「いやです」

庵は睦実の髪を優しく撫で、激しく上下する背中をポン、ポン、と叩く。

「大丈夫、大丈夫。」

そうやってしばらく耳元で彼女の怒りと悲しみの叫びを受け止めていると、泣きつかれたのか、次第に睦実の声は小さくなり嗚咽に変わっていった。

「好きです、睦実。だから離したくない」

睦実はしゃくりあげながら、彼を睨み上げた。
庵の『好き』は親友に対しての『好き』。
自分はそれ以上の感情と欲求を抱いてしまった。その悔しさと憤りを庵にぶつけるのは理不尽だと思ってはいたが、睦実はそうせずにはいられなかった。

「突然、すみませんでした。……でも、口づけをしたかったんです」

睦実は頭を振った。
さんざん拒絶されたのだ。寂しさから無理矢理な行動に出ても仕方がない。でも、庵の望むキスと自分の望んでしまうキスはもう、別のものなのだ。それが睦実には悲しい。

「親しい友人にするのでなく、……世界でたった一人の大切な人にする、口づけが、したいんです」

睦実は驚きに目を見開いた。
泣きすぎて赤くなってしまった瞳が庵の顔を覗き込む。
庵はそれを、言葉の真意を尋ねるものと受け取った。

「いえあの、だから、私達の婚姻は、私の両親への防御策でしたけど、そうじゃなくて名実共に夫婦になりたいといいますか その」

庵の紅潮した顔がさらに赤くなり。
言葉を失った彼を見つめ、睦実はようやく口を開いた。

「……女性が…苦手、なのに?」

「睦実は女性である前に睦実、です」

―――トクン

「汚らわしい行為、なのに?」

「『愛する気持ちが加われば、尊いものになる』と言ったのは睦実ですよ」

―――トクン、トクン

「睦実」

心臓がひどく高鳴るのを睦実は感じた。
そわそわするけど。がくがくするけど。でも、いやな感じじゃない。

「愛しています」

―――ト……クン

心臓がひときわ大きく鳴って。
睦実は庵の背中に手を回し、かき抱いた。

庵がゆっくりと顔を近づける。
睦実は今度は抵抗せず、静かに目を閉じた。

睦実の唇に柔らかく暖かなものが触れる。

ああ、今、自分は完璧に女性になったんだな、と睦実は悟った。

心と体が一つになって歓喜している。
恐怖はもう感じない。
ただひたすら嬉しかった。

睦実は心地良さに安心して身を任せ、庵もまたくすぐったいような暖かさに身を委ね。

二人は息を与え合うような長い長い口づけを味わった。

 

    

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