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その日の夜。月が南の空を傾き始めた丑三つ時。庵は、むくりとベッドから身を起こした。
睦実が彼を避けるようになってから、庵は気を使って書斎のリクライニングソファで眠っていたので、睦実と同じベッドで眠るのはじつに2週間ぶりとなる。
久々の心地よいベッドからわざわざ起き上がり、抜け出そうとしているのにはわけがあった。

「…いおりぃ…?」

そっと掛け布団をめくったつもりだったが、布団から抜け出る振動が睦実に伝わってしまったらしく、彼女は寝ぼけ眼で夫を見上げた。

「どうしたの? こわい夢みた?」

半分眠りの世界に行ったままの睦実の口調はひどく幼く、心配そうに見上げるその顔は実に無防備だった。
睦実が普段しっかりとした口調で話し振舞うのは『一人でも平気』だという心の壁。それを取り払った姿を見せてくれるのが、庵には嬉しい。
庵は微笑み睦実を見下ろす。

「大丈夫です。少し、水を飲みに」

「そぉ?」

「ええ。」

憂いの表情がいまだ取れない睦実の前髪を指で梳き、露になった額に庵はキスを一つ、落とした。
睦実の頬がポッと赤くなり、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべる。

「先に、寝ててくださいね」

「……うん」

睦実はようやく安らいだのか、笑みをたたえたまま瞼を閉じた。
彼女の呼吸がゆったりとした寝息に変わるのを見届けてから、庵はそっとベッドから降りた。

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「……はぁ」

書斎に入ってドアを後ろ手に閉めるなり、庵は溜息を一つ。
己の両の手を見、そして己の唇をそっと指で撫ぜた。
途端、動悸が速くなり、顔に熱が集まるのを感じる。

先ほどのキスも、夕方のキスも。
改めて思い返すとひどく気恥ずかしい。

我ながら良くやれたものだ、と感心する一方で、睦実に笑ってほしかったり、泣き止んでほしかったりしてどうしようもなくなったときに、どうも自分はいつもの闊達さはどこへやら、とにかく無我夢中で睦実を抱きしめてしまう傾向があるようだ。しかもその行為は余計に彼女を混乱させる…… と、自分を客観的に分析して、溜息をもう一つ。
もう少しだけでも器用になれないのかと自己嫌悪に苛まれる。

『お前がリードして睦実と『正しい男女の関係』をつくるんだよ、庵』

そう、ドラリンに日中アドバイスされたが。
どうにもこうにも自信がもてない。先行き不安。

「でも、やるしかないんです」

己を奮い立たせるため、庵は一人きりの室内でそっと呟いた。

口づけも、ましてやそれ以上のことも、いまだに庵には怖い。
トラウマとなった様々なことを思い出し、考えるだけで吐き気がする。でも。

もっと怖いのは、睦実の命が短くなることだった。

睦実は自らそのような行為を求めることを避けている。
彼女が過去に受けた虐待を考えれば、それは当然のこと。
しかし安息を避けフラストレーションを溜め込んだ状態では、彼女の時間は確実に減ってゆく。

睦実が大好きで、大切だった。

本心を隠すことなく振舞えるようになったのも、人間が、少しだけ怖くなくなったのも、睦実のお陰だ。
なにより睦実の傍にいるだけで、心が安らぐ。

それに……今日、初めて、あの言葉を口にして、そして睦実と抱き合い口づけをして、ようやく気付いたのだ。
倉石庵は、睦実を『愛している』という気持ちに。

気付くのが遅かったのかもしれない。
でも、気付いたからにはもう迷うことはないのだろう。

睦実を失いたくない。

もう、辛い思いはさせたくない。

彼女に安らぎを、喜びを、そしてなるべく沢山の余命を、与えたい。

そのために自分が出来ることなら何でも、したい。

 

庵は書斎の机の上に置いておいた本屋の青いビニール袋の封を開けた。
その中から取り出した本たちには『正しい性教育』とか『女性のからだとこころ』『無理のない夫婦のありかた』とかいうタイトルが印字されている。

ドラリンとのランチ……というよりは作戦会議の後に、庵はそれらの本を買い求めた。
成人指定の写真集や雑誌やDVDの購入も検討したが、表紙やジャケットを見るだけで吐き気をもよおしまったので買うのをあきらめ、『医学』や『育児・子育て』の棚でこれらの本をようやく見つけたのだ。

サングラスで変装しているとはいえ端正な顔立ちの男が洒落たスーツ姿で『アダルト』やら『育児・子育て』やらのコーナーを真剣な面持ちで行き来するのは、他の客や店員の目には異様、もしくは滑稽に映ったことだろう。
庵には周囲の状況に構っている精神的な余裕などなかったので、そのことにも気付かなかったわけだが。

ともあれ、なぜ庵が(無意識だが)本屋の店員やら客を驚かせてまでこれらの書籍を購入したかというと。

……物事を成すには、経験、知識、勇気がなくてはならない。

庵には男女のそういったことに対してはその3つとも皆無に近い。ゆえに自信もない。

ならばせめて知識だけでも、と思い『資料』を購入し、学習する決意を固めたのだ。
知識がつけば経験の無さも少しは補えよう。そうすれば自信だって、ついてくるかもしれない。

勇気なら……夕方に、睦実からもらった。

レポート用紙と万年筆と付箋を用意し、大きく深呼吸をしてから、意を決して。
庵は『正しい性教育』の表紙を開いた。

 

    

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