【あなたがくれた勇気】

1月3日。
庵と睦実は、睦実の母と弟妹が住む中野の家を訪ねた。年始の挨拶をすると同時に、結婚の報告をするためである。
海外に出張している父も、さすがに年末年始には帰ってきているだろう。
自分が性転換をしたことや、駈け落ちをしたこと。それらを許してくれるのなら許して欲しいし、許せないというのであれば、いっそ縁を切ってほしい。
いつまでも中途半端なままで居るのは嫌だった。
睦実は、緊張した面持ちで松が両側に飾られた、玄関の前に立つ。睦実の斜め後ろに控える庵も足が震えていたが、妻の方が自分の何倍も不安で恐ろしいのだ、と自らを叱咤して、睦実の肩を抱いた。

「大丈夫、睦実。あなたは、一人じゃないです」

夫に穏やかに囁かれ、睦実の肩の力が少しだけ抜ける。

「ありがとう…」

庵に勇気を貰った睦実は、インターホンを押した。

───ピン、ポーン───

呼び出し音がして僅かの間の後、中年女性の声が応答する。

『はい、どちら様でしょうか?』

久々に聞いた母の声に、睦実は涙が出そうになったが、なんとか堪えた。

「あっ、あの、オレ……睦実、です。どうしても…母さんと父さんに…会い、たくて」

喉が引き攣れて、うまく言葉が出てこない。母が受話器の向こうで一瞬息を飲んだのが分かって、睦実の心が悲鳴をあげる。

拒否される? 通信を切られる?

「睦実!」

と、突然、玄関のドアが開いて母が顔を出した。

「もう外出して大丈夫なの? 柳崎さんはアナタに付きまとったりはしてないの?!」

両肩を揺すりながら立て続けに問う母は、予想だにしなかった問いをぶつけて来る。
睦実は言葉を失ったまま、母の顔をぼんやりと見つめた。

「あの、お義母さん。柳崎さんは、付きまとうなんてことはしてませんよ…?」

庵の存在に気付いていなかったのだろう、睦実の代わりに答えた庵を目にするなり睦実の母は、驚きに大きく目を見張る。

「あら、あなた…確か、睦実と一緒にいた…」

「あっ、ご挨拶が遅れてすみませんでした、倉石庵と申します」

庵は、自分と睦実の母は殆んど初対面であることに気付き、慌てて頭を下げた。

「倉石庵さん…。そうですか、私は睦実の母、笹林 秋菜(アキナ)と言います」

言いつつ会釈した彼女は、睦実のような目を引く美しさはないが、楚々とした柔らかい雰囲気で品が良い、と、庵は好印象を抱いた。

「あらやだ、私ったら玄関でお客様の対応をするなんて…ごめんなさいね。庵さん、睦実、上がって頂戴」

母がアッサリと自分達を迎え入れたので度肝を抜かれた二人であったが、拒絶よりは何万倍も良いので、秋菜の言葉に甘えることにした。

    ****************

客間に通された睦実と庵は、畳に正座をして秋菜が戻るのを待つ。

「睦実、大丈夫ですか?」

問われた彼女は、首を傾げて夫を見遣った。

「いえ…その、だって…」

父親と弟妹が、出てこないから。しかも、秋菜は茶をいれると言って睦実と自分とを此処に待たせたまま、15分近くが経過しようとしている。
緊急で家族会議が行われているのは必至だろう。
なんの連絡もせずに押し掛けたことで不興を買ったのだろうか。いや、それ以前に。自分たちが此処を訪れること自体、彼らにとっては迷惑なのかも知れない。

「オレは大丈夫。母は…母だけは、オレたちを拒絶しない」

自信を持って言いきった睦実は輝いて見えた。庵は、そんな伴侶を見て勇気をもらう。

「そう、ですね。睦実が言うのなら、そうなんでしょうね」

「オレが、言うなら?」

首を傾げる睦実の頭に手を乗せ、庵は微笑んだ。
庵の心の底からの笑顔は、彼が端正な顔立ちであることも相なって、まるで芸術作品のように美しい。睦実は今更ながらに照れ臭くなり、顔が熱くなるのが恥ずかしくなって夫から目を逸らした。
困ったようにうつ向いた睦実が愛しくて、庵は睦実の膝に置かれた彼女の手を握り締める。

「ちょっと、庵…」

睦実は赤面して抗議した。しかしながら庵の表情が真剣そのものだったので、それ以降はなにも言えずに、されるがままにする。
と、客間の襖が叩かれる音がしたので、睦実は咄嗟に庵の手を押し退けた。

「睦実、お父さん連れてきたわよ」

秋菜の声と同時に襖が開け放たれ、秋菜の明るい笑顔が、そして彼女に手を引かれて睦実の父が室内に入って来る。

「父さん…お久しぶり、です」

声を絞り出した睦実を見て、父親は動揺を隠せないまま妻に促され子の真正面に正座した。

「あなた!」

妻に肘で突かれ、睦実の父は慌てて咳払いをしてから言葉を紡ぎ出す。

「あー、えー、睦実も元気そうで…綺麗になったし…その、……すまない!!」

最後の謝罪の一言と同時に父は正座したまま頭を、畳に付くくらいに深く下げた。睦実も庵も驚愕し、呆然と睦実の父のつむじを見つめる。

「お前の結婚式に行く勇気がなくて…! お前は、昔から全てを見透かした所があって…私の心の狭さを見抜かれるのが怖かった。下らない見栄や価値観を捨てきれないままで会うことはできないと…。お前が傷付くことが分かっていながら、自分を守る方を優先した…父親失格だ…!」

土下座をする父に睦実はうろたえ、頭を上げて欲しいと言おうとした、その時。

「…本当に、父親失格ですね」

庵が怒気を隠そうともせずに、睦実の父に向けている。が、その怒りは一瞬で収まり、今度は一転して悲し気な感情を表情に、にじませた。

「ですが…私も、睦実の夫になる資格など、無い」

庵の言葉に、睦実は今度こそ反論する。

「な、なに言ってるの?! 庵ホントは、そんな風に思っ…」

「そう思ってたんです、睦実の結婚式の日までは」

睦実の発言を遮り、庵は続ける。睦実の父は顔を上げ、我が子の決めた伴侶の、次の言葉を待った。

「私は『睦実が幸せならそれでいい』というのを言い訳にして、往生際悪く自分の本当の気持ちから逃げていました。私が本気でぶつけた気持ちを拒絶されたら、と思うと怖かったからです」

庵が、こんな風に心の内を明かすなんて、信じられなかった。しかも、今日初めて会った人間に。
いくら自分の両親であると言えど、そんなに簡単に弱音を吐ける性格ではなかったはずだ。

「い、おり…」

庵の言葉はそのまま、彼の心の形に思えた。
『私たちは、幸せだ。だから、貴方がいつまでも気に病む必要はない』
と。

「失格とか合格とか、資格が有るとか無いとか。そんなもの大したことではないです。今がどうなのか、これからどうしたいのか、どうするのか。それが、大切なんだと思います」

庵は言うなり、睦実の父に笑いかける。今までの彼の人生の中で一番、自信に満ちた笑顔だった。

 

    

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