【十五年後……】
倉石家の長男である12歳の真(まこと)はダイニングテーブルで算数のプリントをやっていた。
「真、夕ご飯の前にお風呂に入ってくださいね」
「うん……もうちょっと後で」
キッチンからの母親の声に、真はグラフの問題から目を離さずに応える。
「お兄ちゃんってホント真面目」
真の妹である5歳の望(のぞみ)が母の手伝いをしながら妙に大人びた口調で兄を評する。
確かに、真は宿題を夕飯の前には片付けてしまわないと落ち着かない性分だったが、今日は違うのだ。
彼は待っていた。ある人物が帰ってくるのを。宿題は待つ時間をつぶすための手段に過ぎない。
「…でね、お母さん、今日は折り紙の時間にサクラの折り方を習ったの。すごく難しくてね、でもちゃんと折れたの!春になったらたくさん折ってウチの中を飾ろうかしら」
「それは楽しみですね。お母さんにも折り方を教えてね」
「う〜ん、いいけどお母さんって折り紙やったことないって前に言ってなかった?」
母と妹のキッチンでの会話をバックミュージック代わりに、真は問題をすいすいと解いてゆく。
彼はクラスでも成績が優秀な部類に入るのだ。加えて外見も父親譲りの綺麗な造作をしているので女子受けも先生受けも大変よろしい。
しかしそのせいで男子にはやっかまれるし女子は女子で自分を取り合ってケンカをするので、モテすぎるのも問題だよ、というのが真の目下の悩みであった。
「ただいま」
玄関から聞こえたその声に、真はパッと顔を上げた。その声の主こそが、彼の待ちわびた人物だったからだ。
真がイスから降り玄関へ向かうと、母と望がすでに出迎えをしていた。
「お父さん、おかえりなさい」
「おかえりなさい、パパ」
「ええ、ただいま」
真の父――庵は妻と娘に優しく微笑むと、まず妻の頬に軽くキスをし、次にしゃがみこんで望にも同じようにキスをした。望が嬉しそうに笑うと、彼女のツインテールの髪がぴょこんとはねた。
そして立ち上がり顔を上げると、庵は息子の真が玄関から少し離れた洗面所のドアの前から遠巻きにして自分を見ているのに気付いた。と同時に息子と視線を合わせ、笑いかける。
「ただいま、真」
「おかえりなさい」
真は目の前に見えない壁でもあるかのように、それ以上は父親に近づかない。
それを察して庵は靴を脱ぐと鞄と上着を携えたまま真に歩み寄る。
「一緒にお風呂に入りましょう」
父の提案は、真自身が父に申し入れたかったことそのものだったので、真はパァ、と顔を輝かせ、元気よく頷いた。
****************
「父さん」
「なんですか?」
父がボディソープをフワフワに泡立てるのを眺めつつ、湯船の中の真は言葉を一瞬躊躇った。
真は元々気が弱い部分があるが、特に最近は風呂に入っているときに父に悩みをこっそり打ち明けたり相談したりすることが増えていた。
これは彼が思春期を迎えたことの現われだろうと庵はしみじみと思うし、我が子が相談相手に自分を選んでくれたことが庵には嬉しい。だから、父と子ではなく男同士として真とは接するし、彼が言いだすまではこちらからは詮索しない。
庵は息子にあえて視線を合わさず何も言わずに体を洗う。
「……父さんはいつからその喋り方なの?」
「喋り、方?」
真の予想外の質問に庵は少々面食らう。
「さぁ…… 物心、ついた頃からですかね。前にも言いましたが私の生まれた家は経済的に豊かで、私は教育係に厳しくしつけられましたから」
「……うん」
この話はまだ、長男の真にしか打ち明けていない。
真に話すにしてもまだ早いのではと庵は妻に提言されたが、庵は真の精神が少年ではなく「男」になったと見込んだのだ。
初めてその話を聴かされたとき、真は今と同じように俯き、神妙な表情を浮かべていた。
「クラスにね」
しばらく黙っていた真が再び口を開いたので、庵は回想から引き戻された。
体の泡を湯で流すと、庵も湯船に入り真の横へ腰を下ろす。
「クラスに……いつも一人ぼっちの人がいるんだ。いつも、父さんみたいな丁寧な喋り方で、でも父さんと違って、なんだか……近寄りにくいんだ。こっちにはいってくるな、って、言わないけど、言われてるみたいで」
「その人はなんていう名前ですか?」
「柏木 誠くん」
「『マコト』同士なんですね」
「うん。……だから余計気になるのかな。今はね、一人でいるってだけなんだけど、一人でいる子はそのうちイジメにあうんだよ。そんなことになったら、嫌だな……」
悲しげに目を伏せる真は、心の底から一人ぼっちのクラスメイトの身を案じている。
それが庵には嬉しくて誇らしかった。
「なら、真の方から誠くんに声をかけてみましょう」
「嫌がられないかな」
「大丈夫。きっと嬉しいと思いますよ。」
言葉が丁寧で一人ぼっちの誠くんが、自分の幼い頃と重なるような心地がして、だから庵は自信たっぷりに断言できた。
孤独で、人を寄せ付けなかった自分にそれでも歩み寄ってきてくれる存在のありがたみに気づいたとき、庵は感謝の言葉をどれほど並べても追いつかないほどに嬉しかったのだから。
だから、誠という少年にも早くその瞬間が来れば良い、と庵は願わずにはいられなかった。
「もしかしたら、一生仲良しな大親友になるかもしれませんよ」
「連賀さんと明美さんみたいに?」
父の友人を思い出し、真の表情が少しほころぶ。
そこへ、
「いやっ、ウチのとーちゃんとかーちゃんくらい仲良くなっちゃえば?」
突然乱入した声、というか姿に、真も庵も目を丸くした。
「ただいまっ! オレもいっしょに入っていいよね?」
言うが早いか掛け湯をし体を洗い始めるのは、倉石家の次男で9歳の樹(いつき)だった。
彼は兄の真とは正反対の活発なスポーツ少年で、ついでに言えば容姿も母親そっくりで兄や父とはほとんど似ていないのだ。
「イッキ、父さんと母さんは男と女だから大親友とは言えないだろ?」
真面目な真は自分の体を泡だらけにして遊ぶイッキこと樹に先の発言にあったミスを指摘する。
その常識的な意見を横で聞きながら、庵は「父さんと母さんも、昔は大親友だったんですけどね」と心の中だけで呟いた。
そっちの話を息子達に打ち明けるのは、まだまだ先のことになるだろう、とも思いつつ。
「それにしても、今日は帰りが早かったんですね、イッキ」
頭よりも体を動かすのが好きな樹は、月曜から木曜までは地元のサッカークラブに通い、週末は両親の友人である明仁の家に行き中国拳法を教わっている。
だから金曜だけは寄り道をしなくても帰りが遅くなるし、明仁の家で晩ご飯をご馳走になる時だってあるというのに、今日は何故だか帰りが早い。
父親の問いに樹はすぐには答えず黙り込んでしまった。
「樹?」
不思議に思い庵は浴槽から立ち上がり彼の肩に触れようとした、その時。
「いーつーきー!!」
乱暴に浴室のドアが開けられ、怒鳴ったのは二人の少年の母で庵の妻である睦実だった。
「明仁さんの家の窓ガラスを割って逃げたんですって? 今明仁さんから連絡がありましたよ!」
「ふぎゃあああ!!」
憤怒の形相で叱り付ける母を目の前に、樹は情けない悲鳴を上げ父の腕にすがりついた。
「ガラスを割ったことを怒っているんじゃありません。どうしてその場で謝らずに逃げたんですか!」
「だっ……て、叱られるし…明仁顔怖いし……」
「『明仁』じゃなくて『明仁先生』でしょう?!」
「うぐえぇぇ〜」
半泣きになってしまった樹の泡だらけの頭を撫でつつ、庵は妻の怒りを鎮めようと口を挟むことにした。
「あ、あの、とりあえずお風呂を出てからにしませんか? このままだと3人とも風邪を引いてしまいますし」
庵の指摘に、睦実は少しだけ落ち着き状況を再認識できた。
夫の言うことももっともだし、真は女性である母に裸を見られまいと恥ずかしそうに俯いて鼻先まで湯の中に潜ってしまっている。睦実は息をひとつ吐くとその場は矛先を収めることにした。
「樹、お風呂から出たらキチンと話をしましょう。それにもうすぐ夕ご飯ですから3人とも早めに上がってくださいね」
多少不機嫌さは残るが引き下がってくれた母に、男3人は一様に胸を撫で下ろした。