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寝室のバルコニーに一人立ち、庵は夜の街を眺めながら冬の風をあびていた。風呂で考え事をしすぎて、湯当たりをしてしまったのだ。
風は冷たく、鼻の奥にしみこみ。
一方で室内からの暖かな料理の残り香もやってきて、二つは交じり合って心地よい香りになる。
右近は一晩寝かせると更に美味しくなるメニューを考えて作っていってくれたので、今夜は一晩中美味しそうな匂いに包まれるのか、と考えるだけで腹が鳴りそうになった。
「庵」
ドアの開く音と共に寝室に入ってきた睦実の声は普段よりも機嫌が良いように思え、庵はふりかえって妻と目を合わせ微笑んだ。
「寒く、ないんですか?」
「お風呂でのぼせてしまったので、丁度良いですよ」
寒風吹きすさぶ中シルクのパジャマ1枚でいる庵を心配し、睦実はベッドサイドにかけてある夫のナイトガウンを持ってバルコニーに出た。
「やっぱり、寒いですよ」
駆け寄り、庵の肩にガウンをかけてやると、自分のガウンの前を急いでかき合わせた。
「ありがとうございます」
庵も少し体が冷えてきたところだったので、上着の暖かさが身に染みた。
「さっき、片付けしてたら見つけたんですけど」
前置きをしてから、睦実がガウンのポケットから取り出して見せたのは、スチールフレームの小さな鏡。
その見覚えのある姿に、庵は白い息を一つ漏らした。いつのまにか見なくなっていたようだったが、気にも留めていなかった過去の愛用品。
「去年の誕生日に、善太さんから預かったんです」
睦実の言葉で、庵の記憶がようやく甦る。
精神的にズタボロだった自分に善太がもらってもいいかと訊いてきた。鏡の向こうへの執着心をとうに無くしていた自分は適当に返事をした、ような気がする。
「これを善太が、睦実に……?」
「いつか、鏡の持ち主に返してほしいと、頼まれました」
庵は息を呑む。
はなればなれになってしまった自分達を再びつなげようとしてくれた親友の優しさを、そこで初めて知った。
「善太……」
庵は鼻の奥がツンと痛むのを感じた。
それが冬の風のせいではないのも、わかっていた。
「返すのが遅くなってしまって、ごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を寄せながらも、睦実はほほえみを湛えたまま、ポケットミラーを庵の手のひらにのせた。
ヒヤリとした冷たさを左手に感じながら、庵も笑みを返す。
「色々なことがありましたから、仕方ないですよ」
庵の言葉はまさにその通りで。
二人はこの1年間であった諸々の出来事を思い返す。
悲しかったこと、辛かったこと、傷つけたこと傷ついたこと、恐れたり、疑ったり、絶望したり。そして、感謝したり、涙が出るほど嬉しかったりした、沢山の、かけがえのない過去。
その先の現在に、今、ここで二人寄り添って立っていられるということが。
庵も睦実も、たまらなく幸せだった。
「……初めて会った時のこと、覚えていますか?」
「え?」
突然の問いに庵が疑問符で返すと、睦実は悪戯っぽく笑んだ。
「庵、ドレス着てましたよね。司令官のコレクションを」
「ああ……」
『コレクション』というキーワードで庵の記憶もようやく鮮明に甦る。
「ドラリンさんが、ウチの明美を誘拐した事件ですよね。明美を助けようと私達が防衛省に乗り込んだんでしたっけ」
「そうですそうです。司令官の暴走を止めた後、皆で食事をしましたよね」
「そういえば、その時も私はドラリンさんのドレスを着っぱなしでしたね」
懐かしそうに目を細める庵の横顔を見て、睦実はくすくすと笑ってしまった。
「なんでこの人、ドレス着てるんだろうって、最初は思いましたよ」
「……。」
あの頃はまだ、庵の中の世界一は庵で、女装させられた明美が可愛いともてはやされるのに対抗意識を露にして自分も女装したことを彼は思い出し、恥じ入って消えたくなった。
「あの頃は……馬鹿でしたね」
「でも、似合っていましたよ」
睦実の追い討ちの台詞に、庵は肩を落とし、拗ねてしまう。
「人当たりはいいけど絶対に手の内は見せないタイプだと、思ってましたよ」
庵の反撃に、睦実も不満げに頬を膨らます。
「庵こそ」
そして二人はどちらからともなく顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。
人に本心を見せようとしなかったあの頃、二人は互いに相手に自分と似たものを感じ、交友するようになった。
けして心の内に干渉することのない、都合の良い友人同士、という意識があったのかもしれない。
それが、今では。
「タイムスリップして、あの頃の私達に今の姿を見せたら、驚くでしょうね」
「『信じられない』って言いますよね、きっと」
あの頃は予想だにしなかった。
今も少し、不思議なのだ。
庵は睦実の長い睫に縁取られた瞳を見つめ。
睦実はその視線に気付き微笑んだ。
「睦実」
「はい?」
庵は先ほど受け取ったポケットミラーを睦実の前に差し出す。
不思議だけれども。
その、変化が嬉しくて、誇らしいから。
「改めて受け取っていただけませんか?」
思春期の頃から常に持ち歩いていたその鏡は、いつも庵の心を慰めてくれた。
一人ぼっちだった時代の、象徴。
でも、今はもう、彼にその鏡は必要ない。
「え……?」
睦実は戸惑った。
夫と友人であった時代。その鏡を使って頻繁に身なりを整える彼を見てきたから。
愛用品を1年間も預かりっぱなしにしていただけでも申し訳ないのに、貰うだなんて、気が引けた。
「この鏡は、私の一番大切な人を映してきたんです」
庵は睦実の手を優しくとり、その手のひらの上に鏡をそっと置いた。
「だから、これからはあなたに映っていてほしい」
その台詞は、『私の一番はあなたです』といっているも同然で、あまりに直接的な愛情表現に睦実の顔はたちまち茹で上がってしまった。
でも。
照れるけれども、嬉しいのも否定できない事実だったから。
睦実はコクリと頷き、そっと、小さな鏡を両手で包み込む。
今更ながら庵自身も照れたのか、頬を赤く染め、睦実から視線を逸らした。
「1日早いですけど……誕生日、おめでとうございます」
そう言ったところで、示し合わせたように寝室の置時計がポーン、ポーン、と穏やかな鐘の音を鳴らし。睦実はふふ、と笑った。
「大丈夫。フライングじゃありませんよ。……ありがとう」
鏡を胸元で抱く、その彼女の手を、庵は優しく包む。
眼下の夜景は冬の澄んだ空気の中で鮮明に輝いている。
白い息が二人分、フワリと立ち上った。
以下はボーナストラックです
→【もうひとつのバースディ・プレゼント】(R-15)
→【十五年後……】
→あとがき対談