【もうひとつのバースディ・プレゼント】
「あの」
しばらくの無言の後、庵が切り出した、ところに
「っくしゅ!」
睦実のくしゃみがかち合ってしまい、庵は言葉を続けられなくなってしまった。
「あ…ごめんなさい。 なんですか?」
「いえ、風邪をひくといけませんし、そろそろ中に入りましょうか」
寒さが体の芯にまで至りそうだったので、睦実は提案に反対せず大人しく庵に手を引かれるまま寝室に戻ったが、先程彼が言いかけた言葉が気になっていた。
でも、そのひっかかりはすぐに解消されることとなる。
「明日は皆が来てくれるし、楽しみですね。右近君は、残念ですけど……」
もう寝ましょうか、とベッドの上で枕を調節しながら隣にいるはずの夫を振り向き、睦実は驚いた。
彼は、ベッドシーツの上にキチンと正座をして、ひどく真剣な面持ちで、こちらを見つめていたのだ。
「あの、睦実」
その姿勢のままボンドで固められたのか、と思うほどに庵の表情も声も強張っている。
「……はい?」
その理由がわからないので、睦実はとりあえず彼に言葉の続きを促した。
「子どもが、欲しく、ありませんか」
ぎこちない、問い。
その、内容に、
「まだ、いいです」
睦実は思わず即答してしまった。
妻に0.6秒でつれない返事をされた庵は一瞬口をあの字にしたまま硬直し、そして石化が解けると苦笑い、というにはあまりにも力のない笑顔を作り、
「そ、そうですよね。そうですよね。なんでもないです忘れちゃってください明日は忙しくなるから早く寝ないと……」
とかなんとか言いながら布団にもぐりこむ。勿論、睦実に背を向けて。
その姿があまりにも情けなくて、睦実は考える前に自分の分の枕を彼に投げつけていた。
ばふ、と顔面に枕をぶつけられた庵は驚きの目で妻を見る。
「なんでもなく、ない!」
妻が怒り出してしまった原因がわからないのか、庵は呆然とした表情で呟く。
「で、も…… 睦実はまだ、望んでないのなら」
「『なら』なんなんですか? オレが望まない限り庵はオレに指一本触れないんですか?!」
―――信じられない。右近が以前そしっていた時はたしなめたけれど、この男はまさしく『ヘタオ』(ヘタレでダメなオトコ、の意)だ!!
睦実は無性に腹が立って、仕方がなかった。
そして妻が怒りに身を震わせているというのに、庵は反省するそぶりも見せず困ったように眉を寄せ、
「睦実が嫌なら、触れません」
きっぱりと断言した。
今の睦実には、火に油だというのに。
「それでも男ですか?!!」
睦実は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「私は、男である前に『倉石 庵』です!」
つられて庵も大声で言い放った。
「『倉石 庵』は『睦実』の望むことを、するんです。嫌がることは、絶対に、しないんです!!」
その、言い分に。
あまりにも恥ずかしい愛の言葉に。
睦実の怒りの形相は消え去り、変わりに彼女の頬はみるみるうちに真っ赤に染まってしまった。
「だったら……」
ぽつり、とこぼした睦実の小さな声を、よく聞き取ろうと庵は彼女の口元に耳を寄せる。
「だったら、勇気を出してください! …それがオレの望むことです!!」
赤面するパートナーの言い捨てるような台詞に、庵は目を見開き。
そして意を決し、感情が昂ぶりすぎて涙ぐんでしまった睦実を抱きしめた。
睦実の目元を拭い、頬を撫でる彼はひどく精悍な、引き締まった表情をしている。
カッコイイな、と嬉しく思いながら、睦実は庵の口づけを受け入れた。
庵は腕の中の妻を気遣いつつ、ゆっくりと彼女に体重を預けてベッドにうつ伏せた。
白いシーツの上に横たわった彼女の背に手を回しながら、次はどうするのだったか、と必死で医学書で学習した知識を反芻する。
睦実に辛い思いをさせたくないという強迫観念に、気を張り詰めた庵の心臓は破裂寸前だった。
長い口づけの後、一度離れた庵の唇が今度は首筋に触れ、睦実の体はベッドの上を撥ねた。
その反応に、彼女を傷つけたのではと庵は怯え、咄嗟に半身を起こして睦実の顔を覗き込む。
「す、みません」
情けない表情に戻ってしまった彼を、睦実は上目遣いで睨んだ。
「あやまらないでください」
睦実の機嫌を損ねたのかと、庵は再び困り顔になる。
「だいじょうぶ……ですか?」
睦実は無言で睨んだまま。
「じゃ、あの……」
庵は逡巡してから、愛する者を真っ直ぐに見つめ返した。
「気持ち良い、ですか?」
真剣な面持ちで問われ、
「答えられるわけないでしょ?!!」
睦実は羞恥のあまり顔から火が出るんじゃないかと本気で思った。
「ご、ごめんなさいぃっ」
「だから謝ないでってばー!!」
ガバ、と庵の頭を両腕で抱える。
突然顔面を妻の胸に押し付けられ、庵は動転したがその柔らかな感触に次第に心が落ち着いてきて、彼は抱擁を黙って受け入れた。
ベッドに横になり、夫を胸の上に乗せ、睦実も心の苛立ちが少しづつ収まってゆくのを感じていた。
―――ああ。
気が強くて頑固で一人で何でも抱え込もうとして意地っ張りで短気でワガママで……
素直じゃなくて負けず嫌いで実は感情的で強気なくせにいざというときは奥手で……
―――なんて、いとおしいんだろう!
互いに似たようなことを考えているのがなんとなくわかってしまって、二人は顔を赤らめ笑いあった。
庵の手が、睦実の頬を撫でる。
睦実はその手に自分の手を重ねてから、彼の意外にしっかりとした骨格の肩に自分の腕を絡めた。
その腕に引き寄せられるようにして庵は横たわる睦実の上に唇を落としてゆく。―――額、頬、鼻の先、唇、首筋、胸元……その動きはぎこちないものの、躊躇いや怯えというものはもはや一欠片もなくなっていた。
暖かさに身体がとろけ、触れている場所から混ざり合ってしまいそうだ、と睦実はぼんやりと思った。
庵の愛撫はひたすらに優しい。
過去に受けた虐待を思い出す余地もなかった。
あの暴力的な行為を受けていたとき、感じていたのは恥辱や死の臭いだったが、今感じるのは、ただただ幸せだ、という柔らかな喜び。
睦実は頬に熱いものが伝うのを感じ、いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。
霞んだ視界の中で、庵が自分を見て微笑んでいる。
彼もまた瞳に涙をたっぷりと溜めていて、それでも溢すまいと堪える姿が、睦実には愛しくて仕方がなかった。
「……泣いてもいいんですよ?」
睦実が呟くように言うと、庵は笑みを深くし、唇を合わせてきた。
閉じた瞼の上に暖かな水が滴って頬に散るのを、睦実はくすぐったい心地で味わう。熱をはらんだ自分の頬で、涙なんてすぐに乾くような気がした。
「ありがとう」
庵が小さく呟く。
「愛しています」
彼の心からの告白に、睦実も首をかすかに縦に振ることで応える。
庵の手が彼女の背筋から腰に移動し、指が脇腹から下腹へ降りてゆくのを、睦実は身体の甘い痺れや早く浅くなってくる呼吸とともに受け入れ。
そして庵と睦実は身体を重ね、愛し合った。