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風呂上りの樹は、畳敷きの客間で正座させられていた。正面には、真剣な表情の、母。
『お説教部屋』と樹が勝手に呼んでいるこの和室に彼は母と2人きりだ。父と兄は妹と一緒に夕ご飯の準備をしていることだろう。普段はお手伝いなど大嫌いだが、今日ばかりはそっちへ混ざりたい、と樹は思っていた。
「怪我はありませんか」
静かに切り出した母の言葉の意味が分からず、樹は怯えながらも些か面食らってしまった。
「え…… うん、ない、です」
戸惑いながらの返答に睦実は微かに安堵の息を吐く。
「明仁さんから、電話がありました。割れた窓ガラスの破片で樹が怪我をしていないか心配していましたよ」
「怒って、なかったの?」
「樹を責めるようなことは一言も。突然いなくなったあなたを心配して下さったんですよ」
「……」
膝の上で拳を握り俯いてしまった樹の頭頂部を見据えつつ、睦実は息を吐いた。今度は、自分への溜息。
明仁からの電話は心から樹の身を案じたもので、彼にそんな思いを味合わせてしまったことが恥ずかしくてたまらなくて、ついカッとなって風呂場まで乗り込み樹を怒鳴りつけてしまった。
感情に任せて子どもを叱るなんて、我ながら酷いことをしたと思う。
「明仁さんは、優しいでしょう?」
静かな、諭すような語りかけに、樹は首を縦に振った。
「樹、逃げてはいけません。失敗をしても、迷惑をかけても、キチンと反省して謝れるようになりなさい」
樹は再び首を縦に振り、そして蚊の鳴くような声で
「……はい」
と応えた。
この説得で反省できるのだからこの子もまだまだ素直だな、と睦実は内心嬉しくなってしまう。が、表には出さない。
「来週の練習の時に、最初にちゃんと謝るんですよ」
「はい」
樹の返事を誓いとして信じることにし、睦実は立ち上がると身を固くして正座する我が子の肩をポンと叩いた。
「夕ご飯にしましょう」
睦実が微笑みかけると、樹も半ベソの顔で笑った。
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料理やら箸やらが整然と並べられた食卓に家族5人全員がようやく集まり、晩餐が始まった。
「樹、反省しましたか?」
庵は父親らしく樹に訊く。しかしその箸でつまんでいるのは睦実が説教部屋に行った隙をついて自分で勝手に作ったスライストマトだというところは父親らしくない。幸い睦実にはまだ気付かれていないが、発覚した時点で彼もお説教行きだろう。
「うん。来週ちゃんと謝る」
「来週を待たなくても、どうせ明日はパーティーで、皆集まるでしょう?」
庵の指摘に「あ」の口をしたのは樹と真と睦実。
「お母さんまで忘れてたの?パーティーの主役なのに〜」
望が明るく笑いながらからかうように言う。
明日は睦実の誕生日で、それを祝うために睦実や庵の友人達が集まる、倉石家の毎年恒例のホームパーティーなのだ。
ちなみにそのパーティーは、睦実の21歳の誕生日は彼女が体調を崩したとかで当日になって中止されたが、22歳以降は毎年必ず開催されている、と子ども達は庵の友人の右近から聞かされたことがあった。
自分の生まれる前からずっと開催されているパーティーを、ロマンティックだわ、と望は常々思っている。
「あたし、明日はドラリンさんから貰った服着るの! フリルいっぱいでお姫様みたいなんだもん! お兄ちゃんとイッキも着るでしょ?」
「……え〜」
「オレは絶っっ対着ない!!」
睦実の上司であるドラリンという女性は、倉石家の3兄妹に年に3、4回ほど季節の服を贈ってきてくれる。……が、その服たちは彼女の趣味全開のいわゆる「かっわいらしー」お洋服なため、意味も分からず着せられていた幼い頃とは違い、思春期に突入した真も、服は動きやすいものが一番という自論の樹も、ドラリンチョイスの服を着たがらなくなっている。
そして可哀想な服たちは捨てることもはばかられるのでタンスの肥やしとなっていたり、する。
贈り主のドラリンとしては全く遺憾だが、望だけでも着てくれるのなら救いにはなるし、ましてや望は美形ぞろいの両親の、いいとこ取りをしたような奇跡的美少女なので、その美少女が自分チョイスのロリータファッションを着てくれるのだから文句が出るどころかドラリン的には鼻血が出るほど嬉しいのだ。
「まぁいいけど。カナも着てくるかな〜」
『カナ』という名を聞いた途端、真は顔が熱くなるのを感じ、赤くなった頬を隠すためにポトフの入ったスープ皿を口元まで持ち上げてスプーンでスープを口内にかきこんだ。
真たちがカナに初めて会ったのは2年前。右近が養女として引き取ったというその少女は真と同い年で、東欧系の顔立ちのあまり喋らないもの静かな子だった。
最後にカナと会ったのは秋の終わりに家族みんなと彼女で動物園に行ったときだったか。その頃から、カナを思い出すとなぜだか真の胸は高鳴ってしまうのだ。
「父さん、善太さんは来る? 善太さんの旅の話、また聞きたいな」
真はカナのことを脳内から振り払おうと普段より大きめな声で父に話しかけた。
「アイツは……普段から消息不明ですからね。でも2月11日だけは帰国するようにきつく言っていますからおそらく来ますよ」
父が『アイツ』などと乱暴に呼ぶのは善太に対してだけなので、きっと2人は大親友なのだろうな、と真は想像し、先の風呂場での相談やクラスメイトの誠のことを思い出ししんみりとした気持ちになってしまった。
「にーちゃん、善太はオレの家来だからな!こんどこそオレと善太と右近で大次郎と清一と光に勝ってやるんだ!」
樹の「勝つ」とは、パーティー開催に合わせた毎年恒例のゲーム大会のことを指している。
競技内容はトランプだったりバスケットボールだったりと様々だが、樹キャプテン率いるチームは大治郎のチームに一度も勝てたためしはない。勿論、最下位は真、明美、連賀の『要領悪い3人』チームだったりするのだが。
「絶対勝ーつ!」と拳を振り上げ息巻く樹を見、庵と睦実は次男がこういう性格になったのは友人たちの中の誰の影響が一番強いんだろう……と溜息をつきたい心境でほぼ同時に考えていた。
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明日のことを考えて子ども達を早々に寝かしつけると、庵と睦実も普段より早めに床に就いた。
「そうですか……真はそういうことで悩んでいたんですね」
布団に入って眠るまでの間、2人は毎日『本日の出来事と反省会』を行う。
庵が風呂の中で真に相談されたことの内容を聞き、睦実は溜息をついた。
「庵には何でも話すんですね。『男同士』とか言って。樹もいつかそうなるのかな……あ〜あ、望を産んで正解だった」
頬杖をつき拗ねたように言う妻の髪を撫でながら、庵はクスリと笑う。
「樹はまだ、睦実じゃないとダメですよ」
「というより、庵も子ども達が悪さをしたらちゃんと叱ってください」
子ども達に甘すぎです、と睦実は自分の隣で横になっている夫の顔をじと、と睨みつける。
庵は困ったように眉を寄せ最愛の妻の怒り顔を見返した。
「……樹は睦実そっくりだからなんだか叱りにくいんですよ……いえ、睦実に似ていなくても、真も樹も望も、私達の愛の結晶な訳ですから、もう、いとおしくて、叱ることなんてできません!」
真面目な顔で果てしなく恥ずかしい台詞を言ってのける夫に脱力するのは、結婚してからもう何百回目だろう、と布団の上で潰れながら睦実は思った。
「その気持ちもわかりますけど、子ども達のためなんですから、締めるところは締めてくださいね」
「はい」
樹の返事だけは良いところは、もしかしたら父親似なのでは、と睦実は思い、少し腹が立ってしまう。
「庵からすればあの子達は『愛の結晶』ですけど、子ども達は一個の独立した人格なんですから。 望なんて、今は『大人になったらパパと結婚する』と言ってますけど、思春期を迎えたら『お父さん近寄らないでよ、うっとうしい!』に変わっちゃいますよ?」
睦実の意地悪な言葉に庵は神妙な顔つきで黙り込んでしまい、言い過ぎたかな、と睦実は謝ろうとした、が、
「困りましたね……」
睦実が謝るより先に庵が深刻な顔で口走った台詞の意味が、彼女にはわからなかった。
「え?」
「望のことは大好きですがそれとこれとは違います。私がこの世で一番愛していて、妻としているのは睦実だけなんですから」
結婚3ヶ月の新婚夫婦でも言うか言わないかの情熱的なくさい台詞をさらりと口にし、どう断ればいいでしょう……などと真面目な顔で続ける夫に、睦実は呆れや恥ずかしさを通り越して笑ってしまった。真剣に自分を愛し続けてくれているこの人が愛しくて。
「睦実?」
急に笑い出した妻を、庵は不安そうに見つめる。その表情も、睦実にとっては愛すべきもので。
「オレ、明日で36歳になっちゃいますよ。もう、おばさんです」
リラックスしきった時には未だ出てしまう男時代の一人称に安堵し、庵もようやく笑顔を取り戻した。
「私なんてとうの昔に40代ですよ。おじさん、ですね」
2人は笑いあい、布団の中で向き合った。
「これから先…50歳、60歳になっても、おじいさんとおばあさんになっても、よろしくお願いします、睦実」
「ええ……こちらこそ、よろしく、庵」
2人は体を寄せ、肩を抱き合い、そして唇を重ねた。初めてそうしたときと同じように、愛しているという想いをこめて。
〜おわり〜