石畳の小道を歩きつつ、カルマは少しだけ後悔していた。
「久々に使ってしまった…」
忘却術。
寺院で習った法術のなかで、カルマが十分に使いこなせるただひとつの術。と、いうより利用価値の高いこの術しか
練習してこなかった。
左手のひらの法印を見せ、『力のある声』で語りかける。すると、相手の記憶を自在に消すことが出来る。…面倒
くさいことをうやむやにするにはうってつけの術だった。
酒代とカウンターの修理代を「面倒くさい」で片付けるのは酷すぎるかもしれないが、あの時は気が立っていたし、
何より財布が無い。
――そもそも、あの情報屋も悪いのだ。彼女が死んでいる、など冗談にしても酷いことを言うのだから。
治まっていた怒りが、再びくすぶり始める。だが、だからといって代金を踏み倒して良いという道理は無い。
あの店には見つけ次第金を払いに行くとして、当の財布はどこか、と多少いらつきつつ考える。
どこかに落としたとは、考えにくい。カルマには寺院での修行で培った鋭い勘が備わっており、目を閉じていても
普通に生活できるくらいだった。
よって、盗まれた線も薄い。
と、いうことは最初から持っていなかったということ。
記憶を手繰る、と、今朝のこと。入国する前、偽装のために荷を二つに分けて片方をユリアに持たせたことを思い出す。
そうだ、そのとき財布も片方の荷に…
すぐさま手持ちの荷物を開く、が、財布は見当たらない。ということは、ユリアが今でも持ち続けているということか。
――冗談じゃない。
カルマは着物の裾をたくし上げると宿めがけて全力で走り出した。

あの中には手持ちの金すべてが入っているというのに。あの娘に財布の入ったほうの荷を渡してしまうなんて、普段の
自分からは考えられないほどの失態だ。何に呆けていたのだ、自分は!

己を罵倒しながら宿に駆け込む、と、窓のサンを掃除していたトムが驚き脚立から落っこちたところだった。
「ユリアはいるか?!」
「びっくりしたぁ…ユリアならいないよ。」
したたかに板の間に打った腰をさすりつつ、トムは恨めしげにカルマを見上げた。
「ああ…大丈夫か」
「フツーこっちの心配を先にしない?いいけど。ユリア…あの後いきなり悲しそうな顔してさ、どっか行っちゃったんだ」
「そう…か…」
カルマはかがんで少し息を整え、そして再び走り出そうとした。が、袂を掴まれ、前のめりに転びそうになる。
「?!」
少しタタラを踏んでトムを顧み、俺の着物のこの部分は掴むためにあるもんじゃないぞ畜生、と喉元まで出かけた、が
「どこにいったかわからないだろ?」
飲み込む。
「そうだが…お前も知らないだろ」
「わかるよ」
言うなり、トムは台帳の並ぶ小机の引き出しを探ると、何か黒い小石のようなものを取り出しそれを右の目の上に
当てた。そしてしばらくして開いた彼の眼は黒目も白目も青白く光っていた。
「トムそれは」
カルマの声に応えぬまま、トムは左の目を閉じ右の青白い目だけで周囲を見回す。
屋内にいながら、彼は何か遠くの景色でも見るようにゆっくりと顔を動かしている。そして程なくして視線は一点
で止まった。
「…いた。大変だ。大人たち…3人かな…からまれてる。早く行かなきゃ!」
カルマの手をとり、急ぎ戸口を抜ける。
「待て!今のは一体」
「僕の右目はね、特別製なんですよ、それよりも、西南の方角、大通りの東側の広場噴水前!!」
庭を抜け、小道に続く裏戸を開ける。
「僕よりカルマさんのほうが足速いでしょ?早く、助けて!」
そしてトムはカルマの腰をグイと押した。カルマは少し戸惑いながらもトムの真剣な顔つきを信じ、走り出す、
その瞬間、頭が痛んだ気がした。それはたったの一瞬のことで、カルマにはそれを気にする余裕など無かった。


大通りの人ごみを掻き分け、トムの示した場所を目指す。
気も早く綺麗に飾り立てた娘の髪飾りを落とし、出店の設営に追われる下働きの一輪車を跳び越えた先にようやく
大きな噴水と、その前に人だかりが出来ているのが見えた。
野次馬を押しのけ輪の中に入ると、その中心にいたのはいかにも荒くれた男3人、とユリア。
カルマはようやくその場にしゃがみこみ、息をついた。
トムの言ったことは本当だったのか、という思いと、あと半分は早く助けねば、という気持ち。
思ってから、カルマは自身に驚いていた。いや、ユリアを心配していたのではない。俺は財布を取り返したいだけだ。
頭の片隅で弁明しつつ、カルマは地を蹴り、とりあえず3人のうち真ん中にいる男の顔に鞘に収めたままの刀身を
食らわせる。不意打ちが効いたのか鼻柱に鉄製の武器をぶつけられた男は鼻血を撒き散らし地面にぶつかった。
「カルマ!!」
彼の背にユリアの声が飛び、そして彼女はこちらへ駆け寄ってくる。カルマはユリアが自分の荷をしっかり抱いて
いるのを見て安堵した。
「何も盗られていないな?」
「?うん…あの、ありが」
彼女がが言い終わる前に、残る二人の男がカルマに殴りかかってきた。
カルマはユリアを後ろへ突き飛ばすと一方を左腕で、もう一方は右手の刀で流し、そして一度引いて距離をとる。
「子ども一人にオトナ3人とは格好悪くないか?」
カルマは冷ややかな目を男たちに向け、蔑んだように鼻から息を吐いた。正直、いかにもいかつい男3人を相手に
して勝てる自信が無いのだ。コレで冷静になってくれるのならば儲けものだが、
「うるせぇ!先にぶつかってきた上に、インネンふっかけてきたのはそっちだ!」
鼻の骨が折れた痛みに悶えていた3人目もようやく立ち上がり、うなずく。
逆に怒りを煽ってしまったようで、カルマは内心肩を落とした。また面倒なことに…なってしまった
「因縁?」
「そうさ!そのガキ…俺たちの大切な祭を…『つぶれてしまえばいい』なんてぇ言いやがったんだよ!!」
「なっ…?」
周囲の野次馬たちも一斉にざわつく。
カルマは石畳の路面にへたり込んでいるユリアに向き直り、その肩を掴んだ。
「…本当か?」
正面から自分を見るカルマの視線を、まるで太陽を見るかのように眩しげにしつつ、ユリアはうなずいた。
途端、彼女の頬にカルマの右拳がぶつかる。
周囲の声が消えた。
頬を押さえうずくまるユリアと、立ち上がるカルマに無数の目が注がれる。
カルマはユリアの持っていた荷を拾うとその場から去ろうとした、のを
「待てよ」
男たちが肩を掴んで止めた。カルマは煩わしげに振り返ると、左手を彼らに向けて突き出す。
『俺とあの子どもは何もしていない。お前たちは俺たちと会っていない』
彼らは身体を固まらせ、その場に棒立ちになった。
「お前もあのガキも何もしていない。俺たちはお前らに会っていない」
カルマは肩に置かれた手を払いのける。その行き場をなくした手はだらりと揺れ、地に向かって伸びた。
男たち同様に呆然とした人垣を抜け、カルマは宿へ戻った。
忘却術を使ったのは今日だけで2回。それほどまでにカルマは怒っていた。大嫌いな権力者に、幼い娘とはいえ協力
してしまった自分に。


ユリアが宿に戻ってきたのはカルマから遅れること二刻。
とうに日が沈んでいて、その頃にはカルマの色々な怒りもおさまり、少女の顔を殴りつけたのは少々やりすぎ
だったかと珍しく反省していた。
カルマは寝台に横になったまま、宿の主人と女将、そしてトムの安堵したように彼女を迎え入れる声を聞いていた。
そして程なくして、こちらへ近づき戸を開け部屋へ入ってくる足音。
「カルマ」
名を呼ばれても、目を閉じたまま。
「昼間は…」
「謝らんぞ」
後悔はしているのに、こう言ってしまったのはなかば意地だった。
「わかってる。…ありがとう。助けてくれて」
カルマはごろりと寝返りをうち、ユリアに背を向ける。
「礼はトムにいいな。あいつがお前を見つけたんだ。」
「え?」
「右目、義眼だと。普段は支障ない程度に用を足してくれるが、磁石を近づけると働きが良くなって、どこまでも
見渡せるそうだ。」
宿に疲れて帰ってきたあと、茶を飲みながらトムに聞いた話だった。トムは己の新しい眼を誇らしげに語ってくれた。
「城が燃えたあの騒乱で、潰れたそうだ。この街にはそうやって身体の一部をなくした者も多いらしい」
城が焼け、いくつもの建物が崩れ落ちた光景をトムははっきりと覚えていた。その様を語ったとき、彼の左の目からは
わずかに恐怖の色が見え隠れしていた。
「俺は、気付かなかったがな」
カルマの視界の中で、ユリアは少し首をかしげた。
「今日一日街中を歩いたが…義手や義足らしいものを見た記憶がない。誰も彼も、自分の身で暮らしているように
見えた。お前は、どうだ?」
「…わからなかった」
カルマのねころぶ寝台の隣の寝台に、ユリアが腰掛ける音がした。
「たいした技術だ。生体培養だったか。この国に代々伝わるらしいが…先代の王は、ことにその研究に没頭して
政治をおろそかにしていたらしいな」
「うん…」
「だが王が研究を完成させていたからこそ、この国の怪我人たちは新しい身体を手に入れることが出来た…そうだ」
混乱の後、崩れた王宮からクレーら医師たちは王の研究を発見し、それをもってして国民の治療にあたった、と
トムは語っていた。
「うん…」
ユリアの声は震えていた。彼女はまた、その短くなった髪をいじっているかもしれないと彼女に背を向けたまま
カルマは思う。
「お父様、いつもお城の奥の部屋で、何か難しいことやってた…」
ポツリ、と出た彼女の声は震えていた。
「お仕事なんて、家臣や教会にまかせっきりで…何も見えてなくて……でも、それが、みんなの役に立ったなら…」
しゃくりあげる、音。
「うれしい、なぁ……」
きっとユリアは城を出てから初めて、泣いている。カルマはけして振り向こうとはしなかった。
「飯は食ったか」
「さっき…たべさせて…もらった…」
「そうか」
目を閉じ、ユリアがすすり泣くのを背中で聞く。と、自分の寝台に彼女が乗ってくる気配がし、カルマは振り向いた。
「おい」
「いっしょに、寝てもいい…?」
自分を見下ろす、赤く潤んだ目。
「さみしいのか?」
「…そうだよ」
再び、彼女の目に涙が溢れ出す。今までずっと気を張っていた彼女の本心がようやく聞こえたようにカルマには感じられた。
10とそこらで居場所を奪われ、共に過ごした仲間もすべて死んだ。皇女とはいえほんの15、6の娘が今まで
助けを求めてこなかったことのほうが異常だったのだから。
少し右にずれ、彼女の入るスペースを空ける。
「来な」
途端、彼の頭が痛んだ。
昼に少し感じたものよりも酷くなっている。が、しかしその痛みも数秒で終わり、カルマは顔をゆがめずにすんだ。
ユリアがカルマの横に収まる。その上に布団を優しくかけ、そして彼は再び背を向けた。
それは今まで散々彼女のことを案じつつも自分の都合を理由に何もしなかったことへの、罪滅ぼしなのかもしれない。
「あのあと…ね、街をたくさん歩いて、たくさんの人と話をした。カルマに殴られた痛さが、忘れられなくて」
カルマが苦く笑うと、ユリアはあわてて「気にしないで」と付け加えた。
「みんな、お父様を、私たちを憎んでいた…でも、トムと同じ。みんな、王の残した研究だけは、感謝してるって」
「そうか」
ユリアのいる左側が暖かいのは、彼女が自分より年若いからだろうか、と彼は頭の片隅で思った。
「この国には、もう私の居場所は無いんだなぁって気付いて、最初悔しかった。だからお祭の準備を楽しそうにし
てる人たちに、酷いことを言った。でも、今は」
ユリアは涙で濡れた顔を、袖口でグイと拭った。
「この国の人たちが幸せなのが、嬉しいの。そのためなら私は…」
とっさに、カルマは半身を起こし、彼女の顔を覆っていた腕を掴む。
「死ぬな」
ユリアは大きく見開いた目でカルマを見、そして少し笑った。
「死なないよ。…でも、一つだけ、やることが見つかったの」
彼女は真っ直ぐに天井を見上げている。カルマは息を吐きながら身を横たえた。今度は、彼女の方を向いて。
「何をするか決めてなかったのか」
「仲間がいた頃は、議員を一人一人殺そうと思ってたけど、今はもう一人きりだったし…とにかく入国したいって、
意地になってただけで、後は考えてなかったな…」
えへへ、と苦笑するユリアの髪を、カルマは乱暴に混ぜる。
「馬鹿が」
やめてよ、と言うユリアの声は嬉しげだった。彼女もカルマに向き直る。
「カルマは?探し人、どうなった?」
「収穫無し」
「そう…」
目を伏せる彼女に、枕を押し付ける。
「人のことはいい。やることがあるんだろう?なら、そのために今日はもう、寝な」
「…うん」
ユリアは素直にうなずき、そして目を閉じる。まもなくして整った寝息が聞こえてきた。
左腕を頭の下に敷き、カルマはしばらくその寝顔を見ていた。長いまつげの奥で涙が揺らいでいる。
ゴトン、と何度目かの頭痛がやってくる。彼はその原因不明の痛みを受け流し、いつしか眠っていた。



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