右近が先導し辿り着いたのは山深くの沢だった。
大治郎は足を止めるなり木漏れ日で乾いた白くすべらかな岩の上に半ば倒れる勢いで寝転がる。

ネクタイを緩め息を深く吸って吐くと、頭上からケラケラと笑い声が聞こえた。

「じろー、もうダウン? なっさけねぇ〜」

自分の胸ほどにも背の届かない小さな少年にからかわれた経験は大治郎には無く、恥ずかしいやら不本意やらで右近を軽く睨む。

「あーんな無茶な移動、人生初だったぜ」

半分は嫌味だが半分は本心であった。

あの美しく広い庭園を抜け高い高い重厚な板塀を右近の手を借りてようやく越えると、目の前に広がったのは鬱蒼と繁る原生林。
その中を通ると右近は言う。しかも、靴を脱いで裸足になり、地面を歩かず木の枝伝いに。

それがこの山での掟だというのだからしぶしぶ従ったわけだが、結果、慣れない木登りで大治郎の傷ひとつ無かった手の平は擦り傷だらけになり、足の裏は赤く腫れてシクシク痛む。

「良かったじゃん。人生ケイケンが増えたな」

悪びれた様子もなく格好つけて難しい言葉で返す右近が憎たらしく見えてくるのはどうしようもない現象であった。

大治郎が睨み攻撃をやめないのでさすがに言い過ぎたかと右近も思い直し、「わるかったよ」と言うなり岩場から熊笹の茂みにピョンと降り、その姿を半ば埋まらせながら緑の中に分け入ってゆく。

「おワビで美味いモンくわせてやるよ。待ってる間、水に痛いトコ浸けてなよ。つめたくて気持ちいーから」

言う間にも遠ざかってゆく声と背中に返事をし、呼吸が落ち着くのを待ってから身を起こして岩棚の下の流れへ足を浸した。

水は思っていたよりも冷たく、足先から背筋を通り脳天まで走った衝撃に声を上げそうになるのを大治郎はかろうじて堪えた。

ようやく水温に足が慣れたので高級スーツのズボンの裾を無造作に捲くり上げ、川底のゴロゴロした石を足の裏でつかんで立ち上がる。

流れは緩やかではないがすねの中ごろまでの深さしかないので水流に足を取られる心配は無かった。
上着を岩の上に置きシャツの袖も捲くって両手も水の中へ入れる。

再び体に震えが走り、この異様な冷たさは川に雪解けの水が多く混ざっているからだとようやく思い至った。
少々寒いが、火照った手足には心地よい。

そうしてしばらくの間冬の名残の恩恵を受けていると、草木を掻き分ける音が近づいてきた。

「手足、どう?」

振り向くと近くの浅瀬の岸に、右近が両手いっぱいに草やら花やらを抱えてやってきたところだった。

「おかげ様で気持ちいいよ」

大治郎が笑顔を向けると右近も安心したように機嫌よく笑った。

「だろ? 今薬作ってやるから」

言いつつ採ってきたものたちの中から数種類の草を抜き出して葉を丁寧に細かくちぎり、平たい岩の上でもみ始めた。
少々しんなりしてきたら拳ほどの大きさの石を使ってすり潰す。

大治郎はその原始的な作業に興味を引かれ、水から上がり右近の隣に座って薬作りを観察した。

「コブシ、食べてなよ」

右近は一瞬手を止め、大振りの白い花の房を大治郎の手のひらにこんもりと載せてきた。

「花、食うのか?」

「うまいよ。川で洗って、オレにも食わせて」

言われるがままに白い花を清流で軽くゆすぎ右近の口元に持っていってやると、彼は手を動かしたまま大治郎の手から花を一口で食べた。

いかにも旨そうに咀嚼するのを目の当たりにし、大治郎も花を口に放り込む。

「うまい?」

「んー…」

生まれて初めてのコブシの花の味は、ほのかに甘く、そして酸っぱく。強い芳香がスンと鼻を抜けた。

「ビミョー……初体験の味ってヤツ?」

大治郎の率直な感想に右近は気分を害するでもなく、笑って二つ目の花を要求してきたので、大治郎はまた言われるままに食べさせてやった。

「この季節はさー、オヤツ少ないんだよね。夏とか秋だったら色んなモン食わせてやったんだけど。ま、3つ目あたりで旨さに気付くからさ」

「そーか」

右近の口にもうひとつ運んでから、大治郎もまたひとつ、食べてみる。香りに慣れたのか、先程よりも甘みを強く感じた。更にひとつ食べると確かな甘味とそれに勝る酸味が心地よい。

「ん。美味い」

「そりゃ良かった。こっちも……出来た、と」

岩の上ですり潰されていた野草はなめらかな緑色のペーストに変わっていた。
強い匂いのするそれを、右近は大治郎の空いた手に塗りつける。

「匂い……キツいな」

たっぷり盛り付けられた野草のすり身をもう一方の手のひらと両方の足の裏にぬりつつ、大治郎は堪らず苦情をこぼした。

野味あふれる青臭さとメンソールも遥かに凌ぐ芳香に目がしょぼしょぼする。

「くせぇ方が良く効くんだよ。って、コレは進兄ィの受け売りだけど」

「普段は進兄ちゃんが薬作ってくれるのか」

「うん。大体は舐めてオワリだけどなー。あっ、コレは作り方も草もちゃんと習ってるから!大丈夫だからな!」

慌てて付け足す少年が作ってくれた生薬はかなり染みるが、手足の腫れが見る見るうちに引いてゆくのを目の当たりにし、その効能の高さに大治郎は驚いていた。

何種類もの野草を集めて、じっくりと手間をかけて葉をすり潰し自分のために塗り薬を作ってくれたこの少年は、口が悪く生意気なところがあるが心根は優しい子なのだ、と大治郎はしみじみと思い胸のうちに温かなものが広がるのを感じた。

コブシの花をもうひとつ口に入れる。
ふわりと、爽やかな芳香が口の中いっぱいに広がった。



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