◇◇◇


埼玉に程近い、けれども東京都内に位置する街の一角。
JR線板橋駅から徒歩15分で着く5階建ての鉄筋ビルの裏手に自転車が一台止まった。

「光先生」

自転車から落りた青年は自分を呼ぶ声に振り向く。

「柳くん」

柳と呼ばれた少年は年齢としては少年だが、光先生こと広河 光よりも10cmほど背が高く、顔だちもクセの強い長めの髪と相まって大人びて見える。

しかし広河光はこのビルの2・3階にある個別指導学習塾のアルバイト講師であるし、柳 智幸(やなぎ ともゆき)はその塾に通う中学生であり、つまり2人の間柄は先生と生徒である。

「柳くん、今日も早いね」

「光先生こそ」

2人は顔を見合わせ穏やかに笑いあうと、連れ立って裏手の階段を上り、2階フロア隅の休憩スペースへ向かった。

「今日で最後だなんて、寂しいなぁ」

8畳ほどの空間に置かれたロングチェアに腰掛けるなりこぼした柳の呟きが静かな室内に溶けて消える。

午前の小学生向けの授業がとうに終わり、夕方の中高生の授業までにはまだ間のあるこの時間帯、塾内は閑散とし、この休憩所にも2人以外は誰もいない。

「そっか。柳くんは春期講習だけだもんね」

「光先生と話せなくなるのも寂しいな。先生も今日で最後なんでしょう?」

観葉植物と長椅子と陽だまりのあるこの場所で、授業の前に一緒におやつを食べながら話をするのが、春期講習初日に偶然この場に居合わせてからの2人の習慣になっていた。

その穏やかな時間が今日で終わることがなんとはなしに寂しくて、柳の問いかけに光は眉を寄せて頷いた。

「元々、1月から3月の短期バイトだったからね」

「去年のうちに大学決まったんだよね。おめでとうございます。……ちょっと、羨ましいな」

光は自分の隣で背を丸める少年を見上げ、その肩を優しく叩く。

「柳くんの受験は今年だろ? 春休みから準備してるんだし、大丈夫だよ。楽しい高校生活が待ってるって」

光の言葉に柳は羨むような呆れたような溜息を吐く。

「光先生はいつもそう言うね。しかも本気で。
よほど高校が楽しかったんだねぇ。この後必ず親友の名前が出てきてさ」

「大治郎のこと?」

親友の名を口にし、光は笑みをいっそう深くする。

「親友って言うと照れくさいけど……そうだね、親友、かな」

自分で言うには照れくさくて、光は窓の外に目をやる。

窓辺の木蓮の枝のほころび始めた蕾が春の訪れを告げていて。
昨年の春の記憶を光は噛締めるように思い返す。

「僕と大治郎、誕生日が1日しか違わなくて…だから去年の明日に、いっぺんに祝おうって2人で徹夜したんだ。楽しかったなぁ。
今年はどうなるかわからないけど。……卒業式以来、会ってないし。きっと忙しくしているんだろうな」

窓の外の青空を眺める光の顔からは笑みが消えていた。

「やっぱり、もう大治郎には会えないのかな……」



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