「!!」

弾かれたように半身を起こした大治郎の周囲には、瑞々しい色の木々と白い飛沫を上げる清流。

岩場の上で横になったまま寝入ってしまったことを思い出し、先までの光景が夢であったことを確認し、安堵の息を吐いた。

そして一緒に寝ていたはずの右近の姿を探したが、彼に貸していたYシャツは大治郎の腹に毛布のように掛けられており、右近自身や岩の上に広げて干していた彼の服は姿を消していた。

きっと彼は先に目覚めて、そのまま家に帰ってしまったのだろう。

さよならくらい言いたかったな、と思いつつ、大治郎はYシャツを羽織って岩の上に座りなおす。

先程見た夢をふと思い返した。



悪夢ではあったけれども、大治郎にとっては荒唐無稽な夢ではなかった。

前半は、去年親友と二人でお互いの誕生日を祝いあった記憶。

そして後半の色彩のない夢は、高校を卒業し、財閥の跡取りとしての研鑽にひたすら打ち込まざるを得ない現在、のように思える。

夢と異なるのは、大治郎はまだ、光のことを忘れていないということ。

それでも、怖かった。

日々積み重なる課題に忙殺され、親友を思い返す暇などなくなるのは時間の問題のように大治郎には思えた。

そして思い至った。

なぜ、自分がこの緑鮮やかな場所にふさわしくないのか。

感動も楽しみも、怒りや悲しみさえない押しつぶされるだけの日々に、自分の心はすっかり色彩を失ってしまったのだ。
あの、白黒の夢のように。

そこまで考えて、大治郎はなぜだかこみ上げる笑いを抑えられなかった。

「ははっ……」

口から零れ落ちた笑い声は、乾いていた。

川の流れからパッと散る水飛沫が金色に輝き、夕暮れが近づいていることを大治郎に知らせる。

大治郎は立ち上がり、ポケットからネクタイピンを出すとそれを岩肌の地面に落とし、躊躇うことなく踏みつけた。

ぺき、と軽い音がし、割れた翡翠の隙間からごく小さな電子回路の残骸が転がり出る。

衛星探査システムを利用した、発信機だった。

次期四菱財閥総帥である自分に万一危険が迫った時の為のもの。
普段は10数個以上を衣服や装飾品のあちこちに付けているが、今日はその正確な位置情報を口にしただけで葬られる、という暗黙の掟のある『天狗』の本拠地へ訪問したため、発信機はこのネクタイピンひとつのみ。

常に一定の距離を保ったまま待機しているボディガードも、普段は10人程いるが今日は執事の野崎一人のみ。

その野崎も天狗の屋敷におり自分は今、まさに1人きり。

チャンスだ、と大治郎は思った。

念のためネクタイピンをもう何回か踏んでから、上着を羽織り、靴を拾う。

山を下りる道がわからないが、なんとかなるだろう、と楽観的に考えることにした。



今の自分は全てを管理された水槽の魚のようなものなのだ。

だから、この自由な空気の中で、息苦しさを感じたのだ。

まともじゃない、と思った。

いつか自分はこの暮らしの中で、水圧に押しつぶされるだろう。

そうなる前に水槽から出よう、と大治郎は決意したのだ。


 ◇◇◇


川に沿って下流へ歩き始める。

岩や石で足の裏が再び傷んだが、街に出るまで靴は履かない。
裸足で歩くのがこの山の掟だと右近に教えられたし、あの少年を裏切らないためにも掟を破りたくはなかった。

「じろ兄!」

背後からの声に大治郎は振り向いた。

今まで座っていた沢の、あの大岩の上に見覚えのある少年の姿があった。



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