河合はちらりと振り向き、微笑と会釈を返すと、広場を横切って行ってしまった。

その姿が地下通路の奥へ進んでゆくのを見、そして自分でもぐるりと周囲を見渡してから、大治郎はベンチに横たわる右近に目を転じる。
先ほどまでは貧血を起こし真っ白になっていた頬が、ようやく血の気を帯び始めている。

安堵の息をつき、右近の横に浅く腰掛けると、大治郎は河合が入っていった通路を眺めた。

すると、通路の奥へ行ったはずの河合が転がり出てくるのが見えた。いや、転がるというよりも、地面に叩きつけられている。
その後ろから男が二人、通路を抜けて広場に出てきた。

大治郎は驚き、ベンチから立ち上がった。

「河合?!」

そう叫びそうになるのを、大治郎はすんでのところで堪えた。

河合が、額からの血にまみれた目で大治郎をじっと見つめ、逃げろ、と促していたからだ。

ここで大治郎が河合の名を呼んだり、ましてや助けに行こうとすれば、大治郎にも確実に危害が加わる。
そう見越しての河合の判断だと大治郎にははっきりとわかっていたが、河合を捨てていく踏ん切りがどうしてもつかなかった。

大治郎が迷い動けなくなっている間に、二人の男は大治郎と右近の存在に気付き、無言のまま一直線にこちらに向かってきた。

大治郎の体は、金縛りにあったように動かない。

男たちが眼前に迫った時にようやく、右近を抱えて走り出すことが出来たが、つかの間の逃走もむなしく、バチン、というスタンガンの炸裂する音を最後に大治郎の視界は暗転した。


 ◇◇◇


野崎は無線機を片手に、新宿の街を走り回っていた。

護衛部隊に指示を出し自分が動かせる人員の大半を高尾から新宿までの沿線に駆り出した。
しかし捜索を開始してから4時間は経っているというのに、主は見つからない。

一体、大治郎様はどこにいるのか。危険な目に遭ってはいないか。

心配で心配でたまらない心のざわつきをエネルギーに転化し、野崎は夜なお明るい繁華街を走り回った。

と、通信をつないだままにしていた無線機の向こうから自分を呼び出す声が聞こえ、野崎は細い路地に入り壁を背に立ち止まってから呼び出しに答える。

「……こちら野崎」

『こちらチーム9。指令履行は困難です!』

通信を始めるなり部下が漏らした泣き言に野崎の片眉が上がる。

彼の部下のうち、チーム9だけには別の任務が言い渡されていた。それは、大治郎の捜索よりもはるかに早く完了すると思われていた。

「一般人1人捕獲するくらい造作もないことのはずだ」

『それが、何者かが妨害を』

「速やかに広河 光を私の前に連れて来るのだ。いいな」

厳しく言い放ち、野崎は通信を切った。

主人の失踪には広河 光が関わっている。
長年大治郎に仕えてきた執事としての勘が、野崎の中で主張していた。

明日…もはや今日になってしまったが、4月1日は広河 光の誕生日で、昨年の今日に主は広河 光を自室に招待し、執事長である野崎すらも部屋から追い出して二人で誕生日を祝っていた。

単なる勘の裏づけなどそれで十分であったし、たとえ主人の目的が別にあるとしても広河 光が手元にいれば、主を連れ戻すことは容易になるであろう。

どちらにせよ広河 光を確保する必要があるのだ。それなのに。

「久々の実戦で腑抜けたか……」

舌打ち交じりに呟いたところで、再び無線が入る。
またチーム9の情けない状況報告かと思い口の端をゆがめて応答すると、今度は護衛部隊本部からの通信であった。

そしてその内容を聞くにつれ、野崎は見る見るうちに顔色を失った。

「大治郎様が……さらわれた…?」

誘拐グループからの犯行声明が大橋家に届いたのはつい先ほどのことだった。

多額の身代金と引き換えに御曹司を引き渡す、との取引を強制された。指定された取引の時刻は明け方。

まだ十分すぎる時間が残されている。
通話を逆探知したので誘拐犯の潜伏場所もすでに把握している。

野崎には、これから何をすべきかがはっきりとわかっていた。

「身代金の用意は不要だ。ただちに大治郎様を救出しに行く」

通話を終えた野崎の瞳には燃え立つような感情が揺らめいていた。



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