大治郎にも右近にも、その一瞬がスローモーションのように長く感じられた。
仰向けの姿勢でゆっくりと床に落ちていく河合の胸の中心に、棒のようなものが突き立っている。
それがナイフの柄だと悟ったときには既に、刃の周囲から血が染み出し、彼の衣服を赤黒く染め始めていた。
「河合ー!!」
大治郎は夢中で河合に駆け寄り、ぐったりと横たわるその体を抱きかかえた。
その頭上に、馴染みのある声が降り注いだ。
「ご無事ですか、大治郎様」
弾かれたように見上げた大治郎の目に、自分たちを見下ろす野崎の姿が映った。
◇◇◇
野崎を見上げたまま、大治郎は硬直していた。
何も考えられなかった。
河合の体が小刻みに震えるのも、それを引き起こしたのが野崎であることも、受け入れたくは無かった。
「……どうやら私は、光さんの元まで同行できないようです」
河合は苦しげな吐息と共に呟いた。
「この状況から貴方を救い出せれば……きっとまた、お傍に仕えることが出来ると思っていましたが……残念、です」
大治郎の腕の中で途切れ途切れに言葉を吐き出す。
その様子を見下ろす野崎の目は冷たく、感情の欠片さえも映っていない。
「二度と大治郎様に近づくなと、言ったはずだ」
「……執事長は昔から、私を嫌っていましたね」
河合は苦痛に歪む表情に笑みをのせる。
その微笑を向けられた途端に、野崎は河合の胸に突き立てられたナイフの柄に手をかけた。
「野崎!」
大治郎の悲鳴に近い呼びかけが野崎の手を制止する。
「なぜ、なんだ……」
主に悲しみに満ちた表情を向けられ、野崎は能面のような顔を僅かに歪める。
「どうやら貴様の方が、信用厚いようだな」
そして野崎は刃をひと息に引き抜いた。
どば、と赤い液体が勢いよく噴き出し、フローリングの床や白い壁紙や大治郎や右近の上に飛び散る。
「大治郎様、私は常に貴方の事のみを案じております」
雫の滴る刃物をぶら下げ無表情のまま言ってのける男が頭から浴びた液体と、自分にたった今降り注いだ生温かい液体が同じものであることを、右近はすぐには理解できなかった。
生臭いような鉄錆のような臭いの中で、大治郎もまた放心していること、ナイフを持つ男が危険な存在であることをだけをかろうじて感じ取る。
右近はへたり込み腰をついた状態から一気に跳躍し、野崎に回し蹴りを食らわせた。
鞭のようにしなる蹴りを即頭部に叩き込まれ、野崎は昏倒する。
「じろ兄!」
野崎が床に崩れ落ちた隙に逃げようと、右近は大治郎の腕を引く。
その呼びかけで大治郎はハッと我に帰り、着ていたYシャツを脱いで河合の胴体にきつく巻き付け、彼の腕を肩に回して立ち上がった。
「……病院へ。まだ、助かるかもしれない」
大治郎の震える声に頷き、右近は出口を探して駆け出した。
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