「野崎さんはいち早く河合 悠斗の正体を知り解雇していたようだね。有能な執事さんじゃないか」

黄竜の声は、もはや大治郎に届いてはいなかった。

幼い自分を外の世界に連れ出し遊んでくれたのは懐かせるためだったのか?
自転車通学に賛成してくれたのは攫いやすくするためだったのか?
今日の再会は偶然ではなかったのか?

同行してくれたのは、殴られて、関節を外して、血を流してまで自分を守ってくれたのは全て演技だったのか??


心が悲鳴を上げた。


長い間騙されていたのだ。
裏切られたのだ。
彼の思惑通りに普通の生活に憧れ軽率な行動をとっていた自分が憎らしい。

自分は馬鹿な獲物だったのだ。


人間らしい心など不要だったのだ。


自分の感情のままに動いた結果がこれだ。
幼い右近を巻き込み、挙句まんまと攫われてしまった。

「俺は馬鹿だ……」

大治郎はガクリと膝をついた。
河合の体がひどく重い。今にも押しつぶされそうだった。

「光に会いたい、なんて思ったのが間違いだったんだ」

涙は出なかった。
体の中が空っぽの空洞になった気がして、声も、嗚咽も、何も出てこない。

視界が端のほうから白くぼやける。
体が小刻みに震えた。
息が上手く出来なかった。

そのままくず折れてしまいそうになった、その時。

温かな手が大治郎の頬に触れた。

「間違ってるもんか」

右近の泣き腫らした目が大治郎を見据えていた。

「悪いのは騙す奴だ。裏切る奴だ。そんな奴なんかのせいで、諦めるな」

右近の両手が、挟み込むように大治郎の頬をぺしり、と打った。

「友だちに会いたいって気持ちは持ってて当たり前だ。
山を抜け出して、電車乗って、走って、ここまで来たのは間違いじゃない。
オレ、じろ兄は勇気あるな、すげーな、って思ったんだよ」

右近は泣き出しそうな顔をしている。
しかし、その瞳は涙ではなく力強い意志で満ちている。

「だから、諦めないでくれよ!」

それは願いだった。

大治郎に大切なものを手放してほしくないという右近の真っ直ぐな願いだった。

それは意志だった。

なにがあろうと大治郎を支えてみせるという右近の強固な意志だった。

偽りの無い右近の本気が大治郎の心に染みわたり、体に力が戻ってくる。


まだ、走れる。


喉に温かなものが流れ込むのを大治郎は感じた。
呼吸が緩やかに戻り始める。

河合を床に降ろし、大治郎は右近を抱きしめた。
右近は拒絶することなく大治郎の肩に腕を回し頭を撫でてくれた。

細い腕だ、と大治郎は思った。
腰も細いし胸は薄い。成長途上の子どものものだった。

この小さくて細くて折れてしまいそうな体のどこに、自分を立ち上がらせ支えてくれるパワーがあるのか不思議に思えた。

いや、きっと不思議でもなんでもない―……


右近の体から手を外し、大治郎は立ち上がった。

「河合の事、よろしくお願いします」

黄竜は頷き、微笑ましいものを見ているかのように目を細める。

「良かったら、君も送るけど?」

「ありがとうございます。でも行く場所がありますので」

一礼し、大治郎は玄関に向かって歩き始める、が、不意に立ち止まり自分の後ろを付いてきた右近の肩を掴み黄竜の方へグイと押した。

「息子さんを長い間お借りしていました。一緒に連れ帰ってください」

「……え?」

その言葉が理解できず、右近は振り向き大治郎を見上げた。

右近の肩を突っぱねるように押す彼は異様なまでに無表情だった。



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