非常階段を駆け下り、敷地の裏手に止めていた車を目指して広い駐車場を横切る。

マンションの周囲にチーム1から8を配置し、駐車場にはチーム6を待機させていたはずだったが、部下の姿どころか気配すら無いのが気にかかった。

「野崎さん」

不意に女性の声に呼び止められ、野崎は駐車場のちょうど中央付近で足を止めた。
いつの間にか、人影がひとつ、ワゴン車に寄りかかっている。

新月に近い月と遠くの街灯の明かりが頼りの暗闇の中で特徴的なクセ毛を見、その人物が千鶴と名乗っていた天狗の関係者の女性だと野崎は思い出した。

野崎と目が合うと、千鶴は薄い笑みを口元に湛えた。

「誘拐事件は収束したようですね。犯人グループは天狗が全員捕縛しました」

「主犯の河合も、ですか?」

「彼は天狗の息のかかった病院に搬送されたそうです。詳しくは当主から説明があるでしょう」

河合が捕獲されていることがわかり、野崎は安堵の息をついた。

これで主に害をなす要因は一つ消えたのだから。
しかし、まだやらねばならないことがある。

「もう一つお尋ねしても?」

野崎の問いを千鶴は頷くことで促す。

「……大治郎様をお見かけしませんでしたか?」

千鶴は返答を迷っているのか、沈黙したまま腕を組み、そしてまた下ろし、ようやく口を開いた。

「1人で駅へ向かったわ。お金が足りるか心配したら、非常用のお金をジャケットの裏地に縫いこんでいるからまだ十分足りるって。すごく丁寧に礼を言ってくれたわ。良い躾をしているわね。」

「行かせたのか?!」

血液がざぁっと頭から足先へ落下する音を野崎は聞いた気がした。
事の重大さがわからず、主が危険な道を走るのを止めようともしなかった目の前の女が憎くてたまらなくなった。

「板橋なら近いでしょう。このあたりの最寄り駅は埼京線なんだし」

板橋、という地名を聞いた途端に野崎の頭の中で何かが光ってはじけた。

河合が刺されたときに口走った『光さんの元まで同行』という言葉がずっと気になっていたが、これで確信が持てた。
自分の予感は外れてはいなかったのだ。

おそらく主は板橋に住む広河 光の元に向かっている。
険しい山の中を抜けて、自分たちから姿をくらませて、誘拐犯に攫うチャンスを与えてまで。

広河 光の、誕生日を祝うために!

野崎は背広の内ポケットから無線機を取り出し、板橋へ部下を急行させようとした。
が、どのチームの回線も繋がらない。

何が起こっているのかわからず焦って周波数のつまみを回す、と、不意にその指先が動かなくなった。

「可愛い子には旅をさせろって、言うじゃない」

千鶴に視線を戻すと、彼女は再び腕を組んでおり、その手先は何かを握っているようにも見えた。
何か、見えないものを……

野崎は己の手元に目を凝らす。
すると、細い鋼線が指を絡めとっているのが微かに見えた。

腕を振り、足を広げてみると、鋼線は指どころではなく全身にくまなく巻きついているのがわかった。

自分が意識しないほんの数秒のうちに緩やかに縛り上げられていたのだと野崎は悟った。
そして、部下達が姿を消した真相も。

「私の部下も、こうやって?」

「貴方と同じように、余計なことをしようとしたからね。
安心して。催眠ガスで眠らせただけよ」

言いながら、千鶴は野崎へ数歩歩み寄る。
野崎に巻きつく鋼線が多少緩んだ。

「目的は、なんだ」

野崎は震える声で問いかける。

戒めが緩んだとはいえ、首にかかっている糸を引けば、呼吸は止まり頚椎は砕ける。
まだ生命の危機は去っていないことを野崎は十分に理解していた。

「目的……そうねぇ。屋敷に戻って、大治郎さんの帰りを待っていなさい」

微笑む千鶴の安穏とした回答に、野崎の顔は引きつった。

「な……!?」

そんな馬鹿げた意見のために、20数人の部下達を気絶させたのか?!

「いい加減、子離れしなさい」

低く鋭い声だった。

彼女の雰囲気と言葉の内容がどうにもかみ合わず、野崎は己の耳を疑った。

野崎の理解できていない表情を見、千鶴は息を吐いた。途端、まとっていた冷たい空気が消え、柔らかな印象を帯びる。

「もはや仕事ではないのでしょう?」

闘う意志を千鶴が緩めたからだろうか。
母親が子に語りかけるような優しい調子の彼女の言葉は、今度は素直に野崎の胸に滑り込んできた。

「子を持つ親の気持ちで、あなたは大治郎さんを守り、育ててきた。
……でも、我が子が一人で歩くのを見守る時期が来たことを、わかっているのでしょう?」

「……ああ」

自然と、肯定の返事が野崎の口から零れ落ちた。

初めて主人と会った日のことを、赤ん坊であった大治郎を抱いた日のことを思い出す。

若くして天涯孤独となった自分を、大橋家は長年受け入れてくれ、大切な跡継ぎの養育を任せてくれた。
自分はその恩義に報いてきた、つもりだった。

わかっていた。
もう何年も前から主人が一人で立ち上がろうとしていたことは。

わかっていたのに、重要な立場なのだから、危険な目に遭うのだから、と押さえつけていた。

寂しかったのだ。
18年間の生きがいを手放すのが。

自分の身勝手が大切な主の成長を妨げていたのだ。

口の中に苦いものを感じる。
それでも野崎はしっかりと立ち、震える唇でようやく声を絞り出した。

「……帰ります。大治郎様がいつお戻りになられてもいいように準備をせねば」

千鶴はにっこりと笑み、腕を下ろした。
野崎の体に絡んでいた鋼線がバラリと地面に落ちる。

「送りますよ」



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